meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

「その時間っぽさ」がなくなっていること


【 午前中には午前中の雰囲気がある(うまく写せてないけどw) 】

 朝、6時10分に目覚ましが鳴ります。当然(?)、わたしはそれだけでは起きられません。目覚ましを止めて、また寝ます。そのうち、もう一回目覚ましが鳴ります。止めます。鳴ります。止めます。さすがに、そろそろ起きはじめます。
 わたしの場合、出勤する日の朝はかなりやることが決まっていて、グラノーラを食べたり、シャワーを浴びたりする順序はほぼ同じです。自然と、その時間も同じになってきます。7時10分にしていることと、7時30分にしていることがだいたい決まっている。寝坊とか、シャツにアイロンをかけていなかったとか、そういうイレギュラーがない限りにおいて、ですけどもね。(;・∀・)
 では、夜はどうかと言われると、こちらはあまり規則立ってない。朝は10分経てば状況が変わっているのに、夜は1時間経っても状況は変わっていません。19時にやっていることと、21時にやっていることは変わらないし、なにより、それぞれの時間帯らしさが感じられない。これはどういうことかな、ってことを最近思うようになりました。

 どのくらい共感いただけるかわかりませんけども、1日にはそれぞれの時間の雰囲気や表情、らしさ、っぽさ、みたいなものがありました。これは特に子供の頃に敏感に感じていたように思えます。6時、7時、8時、学校に行って、1限目、2限目、3限目、4限目、お昼、5限目、6限目、放課後、帰って、17時、18時、19時、というように、毎日リズミカルに繰り返される移り変わりがありました。午前10時と午前11時では気持ちのもちようも違うし、光の強さも違えば、風の心地よさも違います。自分の内部と周囲が「くっ」っと合わさっていくように、その時間帯らしい環境に、その時間帯らしい自分が調整されていたような感覚がありました。もちろん、振り返ってみればそうだったなと考えているだけで、小学校/中学校時代にリアルタイムでそんなことを考えていたわけではありません。ただ、今から思うと、あの頃は時間ごとの表情を豊かに感じていた気がするのです。
 今は、そんな時間性を感じられなくなりました。いい、悪いの話ではなく、でも、上に書いたように、わたしには19時と21時の違いがありません。休日の13時と14時の違いも感じられないようになってきています。精神と時の部屋みたく、ある意味で時間を無視した環境にいるみたいです。
 時計はパソコンと携帯についていますが、今が何時なのかをプッシュ通知してくれるわけではありません。ニコニコ動画の時報は深夜12時と2時になるだけです。その他、21時でないといけないことなんて基本的にはありません。テレビもないので、バラエティが終わってドラマがはじまる、なんて移り変わりを感じさせてはくれません。日常のルーティーンがあるようでないような生活なので、毎日20時ごろには晩御飯の片付けが終わったおかんが洗濯物を畳みはじめるような日課もなく、ただただランダムに、その時間にやりたいことをわたしがやっているという状態になります。
 それがいいか、悪いか、という話ではありません。でも、わたしはこの状況に対して一抹の淋しさのようなものを感じます。不思議な言い方かもしれませんけども、わたしは21時の感覚や15時の感覚、そういった時間の移り変わりが好きだったんだと思うのです。午前中は午前のはっきりした光があって、午前にすることをする。午後は午後のゆるやかな光があって、午後にすることをする。夜も20時の闇と22時の闇は違っていて、20時はまだ活動的な雰囲気が漂っている。22時は静まっていく気配の中で、自分も明日の準備をしていく。ルーティーンと言ってしまえば、あまりに退屈な感触になってしまいます。でも、この繰り返しがないと、どうにもらしさが際立たない。写真で言えば、色がのっぺりと塗られたような感じです。コントラストやグラデーションがない。だから立体感が感じられなくて、いまいち惹きつけられない。

 時間通りに決まった行動をするのは、体のリズムを整えるためとか、近代化した軍隊的規律を守っていくためとか、そんな風に捉えていました。学校の時間割なんて窮屈で仕方がなく、早く自由になりたいなんて思っていたものです。だけども、今の感覚から振り返ってみるに、一番時間性を喪失し、だからこそ時間性を求めていたのはニート時代だったような気もします。白紙になった分、彩るためには自分なりの律し方が必要です。
 では、自分は何時に何をして、何時に何をするか。それはそれで窮屈ですね。たぶん、そういう窮屈さはあっていいものなのでしょう。自分で決めなくても、子どもや同居人に制限されることがあってもいい。どこまでも自由に広がっていくより、その方が気持ちがいいのかもしれません。

 いつでも、どこでもなサービスが浸透してしまったがゆえに、違いがわからなくなってしまったなんて、どこに行っても同じような都市があるから地域性が見えなくなってしまったよ、みたいな話です。以前、わたしはそのような話に対して、「いやいやいや、目を凝らしてみればその地域らしさが見えてくるもんで、自分の目をちゃんと鍛える方が先なんじゃないの?」って話を書いたような記憶があります。そんなわたしが時間に対して盲目になっていたなんて、恥ずかしい話です。
 少し意識を変えようと思って、最近はラジオを流すようになりました。時間を演出するという点においては、テレビやラジオって結構重要な役割を果たしていたんですね。時間帯の雰囲気をラジオ任せにしてしまうのもなんですけども、よく聞いてると、やっぱりちゃんと時間帯に合わせた雰囲気の番組がやっています。

 そういうふうにできていたこと。中にいると、なかなか気づけないもんです。



m(_ _)m