meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

老形未熟。

f:id:meta-kimura:20211030104714j:plain

 幼形成熟ネオテニーという言葉があるが、もはやこれは老形未熟であるなぁ、などと自分を顧みて思う。まだ老形というほどは老いているつもりもないけども、自分をそんな風に捉えていること自体がなんというか未熟者な感じもしていて、いや、未熟というか、幼い。精神的には子供のままではないかと思うことすらある。
 わがままであるとか、傲慢であるとか、そういう話ではない。怒りのままに行動してしまったりだとか、車の運転でついついスピードを追い求めてしまったりだとか、お酒を飲み過ぎたりだとか、若い頃にありがちなあれやこれやをまだやってるってわけではない。そういう無茶は、むしろやりたくってもできなくなっているってのが正しいぐらいである。
 行動から見れば、随分大人びたものにはなっているだろう。洗濯、掃除、料理で手を抜くことはあっても、すっぽかしまくって着ていく服がないってな状態にはならない。マクドナルドにもそんなに行かず、夜ふかしせず、気分次第で仕事を休んだりしない。まぁ、普通の大人だ。
 それでも何やらの未熟感を自分の中に感じている。そういう目で見たら、周りの大人達もどこかで未熟を抱えているのだろうという気がしてくる。幼さが中の方にある。それはピーターパンだろうか。

●◯。。。...

 この未熟感はなんだろう。まだ高校生のときの方が、悟っていたように思えてくる。わたしはまだまだ老成できていない。老成していくような気配もない。
 老いの受け入れ準備ができていないのがひとつ。いまさらになって死への恐怖に取り憑かれているのがひとつ。イメージしていたような賢明さを身につけられていないのがひとつ。なんだかこれらのような要因が折り重なって未熟感を際立たせている。
 どうしたら成熟していけるのかを考えると、ライフステージの停滞に思い当たった。社会人になってからこっち、いろんな場所を経験してきたものの、ステージが上がっていないのだ。結婚していないから、チェックポイントを経ることができなくなっていて、その先に進めないようなことを感じてしまう。いや、だからといって、結婚だとか子育てだとかが精神の成熟をもたらすだろうか。ある面ではイエスだろうが、そればかりでもない気がする。

●◯。。。...

 こういう時期には文学が効く。かもしれないなぁ。どうも物語が不足しがちだ。もっと文章を書く必要もある。ちょっと人文方面を離れてしまったから、もう一度、戻す時間もつくりたい。



m(_ _)m