meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

学んだ知識を閉じ込めない。アナロジカルシンキングのススメ


【 こういう粘土をみて、人だと感じられるのもアナロジー 】

 「ちゃんと考えなさい」とは言われるけども、「考え方」ってのは意外とわかっていないし、習っていない。「方」がわからないんだから、どうしていいかがわからなくなってしまう。勢い本屋のビジネスコーナーでいろんな本をペラペラめくってあーでもないこーでもないと悩みつつ、結局本は買ったけども活かされてんだかいないんだか。そんな経験を誰しも持ってるんじゃないかと思う。
 このブログでも「考え方」については何度も言及してきた。今回はその中でも特に大切なんじゃないかと思う「アナロジー」について書いてみる。アナロジカルに捉えることができれば、知識を活かすことなんてそう難しいものではないのだ。逆に、アナロジーがきかせられないと、なかなか知識は実践で活きてこないものでもあったりする。僕はそんな風に考えている。

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 アナロジーなんて難しそうだわ、と感じられた方、すみません。アナロジーは類推、つまりは「アレとコレは似ていると思えるかどうか」。いや、正確には「似ているところがあると思えるかどうか」かもしれない。似ている、と思える感覚が肝で、ということは、似ていると思うことができている人は既にアナロジーを使えている。「あの人、キムタクに似てるよね」と言えることができればOKである。これがアナロジカルなシンキング。そんな難しいことではないでしょ。
 このとき、キムタクに似ていると言われたあの人は、鼻が似てるのかもしれないし、目が似てるのかもしれない。顔全体のバランスがなんとなくキムタクっぽいのかもだし、もしかすると髪型が似てるだけってこともあり得る。ただ、これらのことをひっくるめて「キムタクに似ているよね」と言い、「ああ、そうかも」とか「なるほど、そやな」とか思っているのである。人間の脳ってのはえらい複雑だったり、曖昧だったりすることをさらっと処理するものである。

 ある顔を見て、他の顔を連想する。目の前にある顔に縛られずに、他の顔の要素や雰囲気を持ち込んで比べることができる。僕はこれをアナロジーと理解している。だから、似ていると思えればアナロジー。似ていると思えれば、アナロジカルに考えることはたやすいのだ。

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 これをもう少し幅広く捉えてみよう。顔や形が似ていることがあれば、プロセスや流れが似ていることもある。この展開どっかで見たよな〜、ってなことをドラマを見ながら思うこともあるハズだ。魔王が出てきて、勇者に倒される。こんなストーリーであればドラクエっぽいし、ラスボスが「永遠の闇」とかの概念っぽい存在だったらファイファンっぽい。こうやって似ているもの探しをするといろいろと似ていることに気付いてくる。この場面、どこかで見たかも。日常生活の中で、そんな感覚が出てくればモノゴトの見方のバリエーションが増えてきたということになる。
 逆に、ドラマやアニメを見ていても、この似たもの探しをしていくことで現実に活かすための知恵を引き出すことができたりする。さらに言えば、物語でなくてもよくて、釣りとかランニングとか、絵画とか音楽とか、それら何でもかんでもを全て結びつけることができるようになっていく。「何に似てるかなぁ〜」とかちょこっと意識しておくだけで、同じ活動をしていても気付きの量がまったく違ってくるのだ。

 例えば、サッカーとドラクエの職業を結びつけて考えることもできる。ディフェンスは僧侶に見えてくるかもしれないし、フォワードは戦士、ミッドフィルダーは勇者や魔法使いみたいに思えてくることもあるだろう。じゃあ、それぞれに求められる性格はどういう風にみえてくるか。ディフェンスには忍耐強さ、フォワードには逞しさ、ミッドフィルダーにはバランスやトリッキーな動き、とかとか。正しいかどうかは置いておいて、こうやって異分野を対応・対照させることで、思考をすすめる手がかりがみえてくる。自分の身近なモノゴトに喩えられれば、予想や仮説が立てられる。
 数学が好きであれば、日々の業務を数学に喩えてみればいい。写真が好きなら、日常生活を撮影という切り口で捉えてみればいい。だいたいは「みんな違う窓から同じ世界をのぞいている」ので、対応させてみればそこから活かせる知恵が出てくるものである。写真であれば量をこなすのは当たり前だし、じっと見て撮ることもあれば、サッと流れるように撮ることもある。これを仕事で考えれば、今はじっとシャッターチャンスを待っているときだな、とか、ここはさらっと流して撮るところだな、とかがなんとなく対応される。そして、そこから導かれる自分のスタンスやモノゴトの流れはすごく腑に落ちるものになったりするから、不思議なもんである。

 もうひとつ、わたしの守備範囲で言えば、アニメや物語は非常に示唆に富むことが多い。『スラムダンクの勝利学』なんかを想像してもらえばよくわかると思う。チームスポーツ系はどういうキャラクターが何に注力すれば伸びるのかを教えてくれる。部活が出てくれば、その部長はわりといいマネージャー像を見せてくれる。天才の横にいる秀才はどういう意味をもつのかを教えてくれる。これらは物語に入り込む一方で、一歩引いた目線から「似ているところ」を探しているから発見できるものでもある。教材なんて、その辺に転がっていて、何からでも学ぼうと思えば学べるのだ。

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 ただし、こういうアナロジカルな思考は「まったく違うAとBはつながるハズだ」という変な確信みたいなものがないとなかなか出てこない。写真撮影の方法と料理の仕方が似ていると思えるかどうか、つながってくるんだと信じられるかどうかが要である。ゲームは役に立たないものだから、ニコニコ動画の文化は独特だから、などと柵の中に入れてしまってはいけない。情報というのは動かしてこそ価値をもつ。中国語を修得した経験があるのであれば、そのプロセスを洗濯するプロセスに当てはめて考えてみたらよいのである。知識を専門の中に閉じ込めてしまってはおもしろくない。クリエイティビティを出そうと思うのであれば、異分野を承知の上で、思いっ切りぶつけて対応させてみる。そうすると何か見えるものが出てくる、かもしれない。

 これをもんのすごく鮮やかにやったのが梅棹忠夫さんだと思っている。『文明の生態史観』『情報の文明学』でのアナロジーのきかせっぷりは半端ではない。前者は文明の発展段階を植物の遷移に喩えてみている。後者では産業構造の移り変わりを生物の発生段階で読み解いている。どちらもすごく平易な言葉で書かれているので、未読の方は是非読んでみていただきたい。僕は高校時代に読まなかったことを後悔した。せめて大学時代、卒業論文を書く前に読んでいれば、研究の手がかりをつかめたのかもしれない。

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 なにはともあれ、できればこのアナロジーというのを考える方法のひとつに入れてみて欲しいなぁ、と思っている。ちゃんと考えろったってなんにも思いつかねぇよ、ってときには置かれている状況を自分の好きなことと対応させてみて欲しい。似ている点があるなぁ、と思えれば、そこから状況を打開する知恵が出てくることもあるだろう。
 そして、普段から似ている探しをしておくと自然とアナロジカルに考えられるようになると思う。NHKでサバンナの生態系を見ながら、自分の家族を思い浮かべるような見方ができるようになってくると、一粒で二度美味しく、コンテンツを楽しめるようになってくる。温故知新、歴史から学ぶときにも、今がどの時代と似ているのかを意識しないと空振り三振、せっかく得た知識を活かせないままになってしまうことになりかねない。

 アレとコレが「似ている」と感じる。その感覚を大事に育てていって欲しい。それがないと、学校で学んだことも、ワークショップに出て体験したことも、そのままお蔵入りしてしまう。それは先生にとっても残念なことだし、自分にとっても勿体無いことなのだ。



m(_ _)m