まぁまぁ、落ち着いて。お茶でも一杯飲んでいきなさい。夏なら冷たい麦茶があるし、冬ならあっつい煎茶がある。ほっと一息ついて、それからまた歩きはじめなされ。
そんなに焦っているけれど、そんなに切羽詰まっているけれど、お茶飲む余裕ぐらいはあるでしょう。ほんとにそこまで息せき切ってやらなきゃならぬことなのか。生き急いでうまくいくものなのか。ぐっと止まって考えてみてもいいではないか。
まぁま、茶でもすすって落ち着きなされ。
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いろんなご縁が舞い込む中で、わたしにできることと言えばなんだろうと考えているうちに「お茶」が思い浮かんだ。肩の力を抜いてお茶を飲めば、自分の思考を取り戻せるぐらいの余裕ができるのだろうと、少し思う。銀河英雄伝説の知将ヤン・ウェンリーが紅茶を飲むように、まずはずずずっと飲んで、ふぅっ、とやったらいい。それができれば、自ずからやるべきことが見えてくるものだろう。
とかく、この世は情報に溢れている。人はその渦に巻き込まれやすい。繁忙期があったり、期限があったりして、タスクの波にも飲み込まれてしまう。そういったときでも、自分の思考を保てる人は少ない。
強い意見に流され、刺激があれば脊髄反射で反応し、成功事例に欲が動く。自分などない、と言ってるぼくが言うのもなんだけども、そういうときには人が乗っ取られるのだと思う。知識だけが影響を受けているように見えて、思考モデル、経路、考え「方」までもが乗っ取られていることもあるから気をつけなきゃならない。
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ちなみに、どんどん乗っ取られりゃいいし、むしろ乗っ取られているっていうことがデフォルトなんじゃね?ってのが普段のぼくの意見である。わたしは「わたし自身」がそんなに存在するとは思っていない。演出次第で、ぼくにだって、わたしにだってなる、こんな曖昧な野郎に主体性を期待し過ぎちゃいけない。
それでも、周囲を見渡していると、ああ、こりゃあ、お茶飲んだ方がいいな、と思うことがちょこちょこある。そういったとき、人は自分の言葉を見失っているように感じる。借りてきた材料と、借りてきた道具で、借りてきたように組み立てられる意見には、既成品感がきちんと漂っている。
たとえば、「終戦の日、黙祷する」というつぶやきと「安部は国民を騙している」というつぶやきと、見比べてみたら一目瞭然であろう。実感にそぐわない表現は素直さを減耗させる。後者が本当にその人の実感に沿った言葉なのかどうかは、立ち止まって考えてみてもいいと思うのだ。
ケストナーならここに、子どもの良心をプラスするだろう。
大人だろ、考えろよ。子どものころのように。
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お茶でも飲めるぐらいの落ち着きがあれば、自分が乗っ取られているかどうかは何となく掴めるだろう。「何に」取り憑かれているかがわかっているか否かで、思考はだいぶと違ってくる。
送りバント専門家のぼくが担うのは、そういうちょっとしたブレーキ係である(ブレーキが好きなだけで、必要ならアクセルも踏むけどね)。
m(_ _)m