meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『技法以前』あの頃の世界観を引き出しておく読書

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 この春、大学を卒業する友達に本を贈った。彼の何がスゴイって、自分の卒論を窓口やってるオッサンに手渡したことだ。提出場所が窓口だったわけじゃない。ある日、さらりと現れて、どうぞ、と言って、わたしの手にはプリントアウトされた卒論が残った。たぶん、わたしはポカンと口をあけていたと思う。他の人に卒論を見せるなんて、そんな勇気はわたしにはなかったし、世の中の大学生のほぼ全てが同じような感覚を持っていると信じ込んでいた。ところが違ったのだ。
 その勇気に応じたくなったのは当然のことだった。門外漢ながら書いてあることを読み込み、どこがどうつながって、何が導かれているのかを「あーだこーだ」と言いながら探った。専門的な話は全くわからない。けども、読み手としての意見なら返すことができる。いくつかのポイントに絞り込んで、返事を書いた。「それ、ひかれるんちゃう」と言われたけども、ひとまず送った。その後、彼からはいくつかの返信があった。

●◯。。。...

 そんな相手に贈る本を買いに行き、ウロウロウロウロと本屋を徘徊して、最終的に行き着いたのが『技法以前』だった。言わずと知れた「べてるの家」の本で、精神障害がテーマになっている。贈る相手の専門からは大きく逸れる。でも、きっと楽しんでくれると思った。
 そのくせに、帰宅して、お茶を飲んで、ふと冷静になってみると、ほとんど内容を覚えてなかった。なんとなくのさわり心地ぐらいのものしかなくて、久しぶりに読んでみたくなった。6年とか7年ぶりの再読である。

 「三度の飯よりミーティング」「自分の苦労を取り戻す」「弱さの情報公開」「勝手に治すな自分の病気」などなど、懐かしい世界観が広がる。自分自身が支援者だったころ。そのころにどんな対応をしていたかが、ちょいちょいと思い出される。結局、勢いにまかせて一気に読んだ。
 考え方。ときに絶望的とも思える現実に対して、どういうスタンスをとっているか。その科学的でユーモラスなスタイル。職人によるミラクル話のように見えて、そこにおさめてはおけない、大きな変革の話がある。胸の奥の方で、じっくりと流れているものを掘り出してくるような作業で、だから、わたしは『技法以前』を手に取ったのかもしれない。そういう意味では、自分のための選本だったとも言える。

●◯。。。...

 どうも最近のわたしには「あの頃」があって、そのときの世界をちらりちらりと覗きこみたくなっているようだ。大きな安定期を享受した一年から、次のステージを模索する局面への備えに入っている。
 今の立ち位置にいられるのはあと1年と少しだけである。経験を総動員して、耳をすまさなければならない。風をよんで、波に乗る。その準備運動なのだろう。
 わたしはわたしの苦労を、引き受けられるだろうか。

 

m(_ _)m

 

 

技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)

技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)

 

 

『おせっかい教育論』まぁ、ぼく、おっせかいなおばちゃん苦手やけどね。

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 久しぶりに内田樹さんの本を読みたいと思って手に取り、スグにその内田ワールドな論理展開にスッとした気分が少し。読み進めていくにつれて明らかになってきたのは、自分が内田樹的な世界から離れてきたのだということだった。

●◯。。。...

 内田樹さんの言葉は、シンプルかつ明快で、心強くパワフルである。世間で一般的と思われていることをバサッと切り倒す痛快さは、一時ぼくの頭を魅了した。そこには反撃できないような鮮やかさと、未知への尊敬の念がある。自分のテリトリーにあってはこうだといい切り、未知の領域にはむやみに踏み込まないし、切り裂かない。特にNPO時代、障がい福祉サービス時代には何度も読み、真似をした覚えがある。
 その慣れ親しんだ内田樹さんの言葉に、ひっかかりが出てくるとは思わなかった。つまりは自分の立ち位置が変わったということで、つまりは体制側にいるということなのだろう。ちょいと哀しい事実である。

●◯。。。...

 教育をビジネスにしてはならない。経済原理で考えてはならない。今のところ教育で何とか生計を成り立たせている自分には、こういう主張が痛く刺さった。そして、目の前で起きていることとと比較対照した後に、いやいやいやいやさすがにもうちょいビジネスにしてよ、という反論が喉の奥からあがってきた。
 何も、教育をそっくりそのままビジネスにしようとしているわけではない。何も、教員をがんじがらめに縛り付けて平準化させようとしているわけでもない。教育現場とか大学とかに変なおっさんがいることも大事だという意見にも、大賛成だ。だが、そこで起きている悲劇を放っておくわけにもいかんのじゃないか、とは思うのだ。
 諸々の現実を書くことは控えるが、まぁ、驚き呆れる事態はある。それに慣れきっているようなふるまいにもまた驚く。非常に難しいバランスなのも重々承知しているつもりではある。けども、限度も限界も、いつかは見えてくる。

●◯。。。...

 現場の現場もあれば、制度の現場もあるから、ことは厄介である。その点を、大阪市の平松市長が少しだけ埋めてくれる。「立場上言わなければならないことがある」をよく知ってしまった、というのも、ぼくの成長なのだろうか。

 にしても、なにはなくとも、ぼくはおせっかいな関西風おばちゃんが、苦手なのだ。

 

m(_ _)m

 

 

おせっかい教育論

おせっかい教育論