meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

3月11日のことを、まだ飽きずに書いてみる。

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 6年が経った。今年は仕事のない土曜日だった。
 東京に行きたい予定もあったのだけれど、次の日が朝から仕事ということで、残念ながら諦めた。気持ちよく晴れた、その暖かい日差しに誘われて車に乗り込み、裏庭に敷く砂利だとか、苗だとかを買いに出かけた。外の空気はまだ肌寒いけども、車の中は日で暖められて、少し暑いぐらいだった。
 気分よくいくつかの店をまわり、気がつけばお昼を過ぎていた。コンビニの駐車場に入って14時46分を迎える。NHKラジオを聞きながら黙祷した。いつものFMに戻したら、福山オジサンが桜坂を歌っていた。歌うしかないのだなぁ、と思い、歌うしかないってのもいいなぁ、とも思った。色んなあれやこれやを全部ひっくるめて、そこに結晶させられるような人は、素晴らしくて、ズルい。

●◯。。。...

 東日本大震災の発生から6年である。相も変わらず、普通に生きている。「これでいいのだ」と「これではいけないのではないか」の両方を抱えていて、これが正常だと思っている。6年前と比べると、わたしの生活はだいぶと変わった。少なくとも砂利を担いだことはなかった。(;・∀・)

 何かと防災面が強調されるのが震災報道とか震災特集の宿命なのではあるけども、そこにとどめておくのは絶対にもったいくて、毎年毎年「あれはライフスタイルへの問いだったでしょう」というようなことを書いている。
 東日本大震災が起こったときに感じた「何かしなきゃ」には、どこかに自分の今までに対する「うしろめたさ」があるようだった。異常なまでの正しさへの同調圧力。寄付しなきゃ、ボランティアしなきゃ、支援しなきゃ、助けなきゃ。一体となって力が集中していくその偏りに、わたしは不健康さを感じてしまった。その気持ちの裏側には、同じことをしなきゃという日本人的な焦りとともに、「これはわたしたちがやってしまったことだ」という罪の意識もあったのではないだろうか。
 だから、多くの人が、このままではいけない、と思ったのではなかろうか。

●◯。。。...

 元に戻してはいけないとさえ、思ってしまう。ボディブローをくらったのだ。その衝撃は、奥底に響いていないといけない。あのときの「これではいけないのではないか」を懐に入れておかなくてはならない。特に、被災していないわたしたちは。

 

m(_ _)m

 

<1年目の記事>

meta-kimura.hatenablog.com

 

<2年目の記事>

meta-kimura.hatenablog.com

 

<3年目の記事>

meta-kimura.hatenablog.com

 

<4年目の記事> 

meta-kimura.hatenablog.com

 

<5年目の記事>

meta-kimura.hatenablog.com

 

<震災当時の記事いくつか>

meta-kimura.hatenablog.com

 

meta-kimura.hatenablog.com

 

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下り坂では後ろ向きに――静かなスポーツのすすめ

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『希望の国のエクソダス』村上龍の先見性と、問題提起。

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 再読である。といっても、前に読んだのはたしか2009年ぐらいのことで、そう考えるとおよそ8年ぶりぐらいに読んだことになる。内容はすっかり忘れていた。
 でも、なぜか出会いは覚えている。当時、経済ってものが信じられなくなったぼくは、なんだかどうにも掴みどころない社会の中でもがいていた。向こう見ずに会社を辞めて、無職になり、柄にもなくボランティアなどに参加しはじめて、今あるものではない何かを探し求めて、さまよっていた。そんなときにのぐそんという優秀な医学生が、kimuraさん、これを読むべきですよ、と紹介してくれたのが『希望の国エクソダス』だったのだ。彼はその後、産婦人科医になったとか、どこかで聞いた。

●◯。。。...

 1998年から2000年にかけて連載されていた小説なのだけれど、内容は古くないと思う。経済の問題についても、教育の問題についても、今、2017年にもやっぱり同じような問題に世の中は直面している気がする。小説の中で反乱を起こしていく中学生は明らかに社会起業家たちを思い起こさせるし、日本経済の衰退、失業率や経済格差についても、見事に村上龍氏の予想が当たっている。チームダンスが日本中で流行っていた、なんて描写にはドキッとさせられた。ヨサコイのことだと思った。
 幸いだったのは、円の信用がそれほど落ちなかったことだろう。未だに「比較的安定しているとされる」という枕詞がついているのは、幸運だと思う。まだ、日本は見放されてはいない。かといって、この下り坂が変わるわけではない。

 若干、当時のネット社会に対する過剰な期待感は感じられた。インターネットの世界がとっても未知で、可能性に溢れていて、とても素朴な善に向かっていく空気感が、ぼくには懐かしくて、切なかったりもした。そうだった、そうだった、あのときのインターネットは万能で、今ほど現実世界してなかった。
 その世界が、いつの間にか、リアルに回収されてしまったのかもしれないし、それは今のぼくが感じる錯覚かもしれない。そんな気分にもなった。インターネット的だったあのときの感覚は、忘れたくはない。けども、どうにもそんな状況ではなくなってきているのも、また、事実なのだ。できることならば、もっと、やわらかくあり続けたいと、思う。

●◯。。。...

 この国には希望だけがない。不登校を続ける中学生の代表、ポンちゃんはそう言い切った。「希望」ということの意味を、きちんと考えなくてはならないのだろう。あんまり安っぽい物語に、自分を売っちゃいたくはないから。

 

m(_ _)m

 

 

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)