meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『苦海浄土』と。

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 読み終えた。実は1ヶ月程前には読み終えていた。だけども、なかなかに身体が重く、書く気になれなかった。水俣病という内容にずどーんとやられて、タジタジしてたわけではない。いや、やられたにはやられたのだが、とにもかくにも、最近は筆が重いのである。
 書きたいことが書けない。自分の力不足が見たくないのだ。

 避病院から先はもう娑婆じゃなか。今日もまだ死んどらんのじゃろか。そげんおもいよった。上で、寝台の上にさつきがおります。ギリギリ舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。背中で舞いますと。これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬け猫の死にぎわのごたった。

 統一されない文体、語り口。聞き書きのような文章に医師の記録がスッと挟み込まれる。水俣病を取り囲む断片たちに、困惑した。濃密な文章を、合間合間の時間に読んでいったからかもしれないけれど、時系列もわからなくなった。長きにわたる事件の、いつの時代に飛んだのか、飛んでいないのか。
 どうやらそんなことはどうでもいいらしい。順序がどうとか、アレが起きてからコレが起きたとか。そういう事実を客観的に見るような目線を、メインには据えていないように思えてきた。これは、この混濁したような認識が、書き手の見ているもの、そのものなのかもしれない。勿論、わたしの頭が足らないから、そう思えてしまったのかもしれないが。

 漁師の生活はぐっと美しく、病は凄惨だった。

 水俣病患者家庭互助会代表、渡辺栄蔵さんは、非常に緊張し、面やつれした表情で、国会議員団の前に進み出ると、まず、その半白の五分刈り頭にねじり巻いていたいかにも漁師風の鉢巻を、恭しくとり外した。すると、彼の後ろに立ち並んでいる他の患者家庭互助会の人びとも彼にみならい、デモ用の鉢巻をとり払い、それから、手に手に押し立てていたさまざまの、あののぼり旗を、地面においた。
 このことは、瞬時的に、水俣市立病院前広場を埋めつくしていた不知火海区漁協の大集団にも感応され、あちこちで鉢巻がとられ、トマの旗が、ぱたぱたと音を立てておろされたのである。
 理想的な静寂の中で、渡辺さんの次に進み出た小柄な中年の主婦、中岡さつきさんがとぎれ勝ちに読みあげた言葉は、きわめて印象的であった。大要次のごとくである。
「……国会議員の、お父さま、お母さま(議員団の中に紅一点の堤ツルヨ議員が交じっていた)方、わたくしどもは、かねがね、あなたさま方を、国のお父さま、お母さまとも思っております。ふだんなら、おめにかかることもできないわたくしたちですのに、ここにこうして陳情を申しあげることができるのは光栄であります。
 ……子供を、水俣病でなくし、……夫は魚をとることもできず、獲っても買ってくださる方もおらず、泥棒をするわけにもゆかず、身の不運とあきらめ、がまんしてきましたが、私たちの生活は、もうこれ以上こらえられないところにきました。わたくしどもは、もう誰も信頼することはできません……。
 でも、国会議員の皆様方が来てくださいましたからは、もう万人力でございます。皆様方のお慈悲で、どうか、わたくしたちを、お助けくださいませ……」
 彼女の言葉に幾度もうなずきながら、外した鉢巻を目に当てている老漁夫たちがみられた。人びとの衣服や履物や、なによりもその面ざしや全身が、ひしひしとその心を伝えていた。
 日頃、”陳情”なるものに馴れているはずの国会派遣調査団も、さすがに深く首をたれ、粛然たる面持ちで、
 「平穏な行動に敬意を表し、かならず期待にそうよう努力する」
 とのべたのである。
 陳情団代表の人びとも、これをとりまく大漁民団も、高々とのぼりをさしあげて、国会調査団にむかって感謝し、陳情の実現を祈る万歳を、力をこめてとなえたのであった。
 なるべく克明に、私はこの日のことを思い出さねばならない。

 えらい長く引用してしまった。わたしは何も知らなかったのであり、想像力に欠け過ぎていたのだった。
 得体の知れない病気が起こりはじめた時代のこと、その場所のこと、そのころの文化、どういう人たちが、どんな風に受け取ったのか。1950年の後半の、地方の漁村に、突如として現れた未知の病気は、当初、原因が不明だったのだ。治療なんて、できるわけもなかった。
 ほとんど、ホラーなのだ。症状は甚だ重く、多様で、身体がうまく動かせなくなってきたと思ったら、視野狭窄、不随意運動、雄叫びをあげて、踊り狂って死ぬ。戦後から、高度経済成長に入ろうというときの、地方の、漁村でのことだ。そして、そこに「会社」が深く関わってくる。それが、町の経済を支える「会社」だったのだ。

 世の中というのは、とても複雑で、罪深い。
 水俣湾の安全宣言がなされたのは、1997年である。

 

m(_ _)m

 

 

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

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『レトリック感覚』発見する比喩、発展して物語。

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 文体が気になりはじめたのはいつ頃だったか。レイモン・クノーの『文体練習』を某NPO代表からすんごい長い期間借りっぱなしにしていたときには、まだ、そんなに気にしていなかったと思う。ただ、その頃から、ぼくは鬱屈していた。書いても、書いても、届かない何かがある。meta.kimuraを書きはじめたときから、少しずつ積もってきた違和感。もう、5年ぐらい前のことだ。
 文章には限界がある。言葉で区切った世界のハザマに落っこちるものがあって、それは言葉にできない。できないから、文章では切り込めない。分析できない。扱えない。でも、それこそが、大切なものなのではなかろうか。書いても、書いても、届かない。原理的に、届かない。

●◯。。。...

 だから、ぼくは写真を撮っているのだろうと思ったし、物語にも目をつけた。イシス編集学校の物語講座に、うっかり申し込んでしまったのはそのためだった。思えば最初っから、「遊」という物語講座を目指して編集学校に入ったのだった。

 物語は、比喩だ。レトリックだ。写し取りたいことに、直接切り込む野暮な分析家ではない。ヒストグラムを見たって、写真の美しさはわからない。その迫力は、繊細さは、湿っぽさは、シズル感は、写真そのものを見ないと伝わってこない。燃えるような赤は、絵の具の赤じゃないのだ。足の疲れを伝えるのには、足が棒になったと言った方がうまく伝わる。
 Aを伝えるのに、Bを使った方がいいというのは、なんだか矛盾した話だけど、どうやらそれが本当のことらしい。やたらに幅をきかせている合理や論理が、真実ではないという、いい例だと思う。
 つまり、物語も、レトリックも、違うのは大きさだけで、やっていることは同じなのだ。そして、これらがあるから、言葉は自由に飛べる。言葉と言葉の合間を掬うことができる。この重要性に、ぼくらはもっと気づくべきなのだろう。『レトリック感覚』の著者が言うように、レトリック教育があっていいはずなのだ。言葉の装飾であり、虚飾だったり、化粧だったり、嘘偽りだったりもするようなことを、扱って、乗りこなすために。

●◯。。。...

 そう。往々にして、レトリックは嘘偽りと見なされる。そのせいで、レトリックは一時期冷遇されたらしい。人は虚飾を好まない。今でも、装飾や見栄や化粧を嫌う人たちがいたりする。ナマがいいなんて、くそくらえだ。
 AをAに閉じ込めておかないからこそ、そこに発見が生まれることが、見逃されているのだ。そこがレトリックのメインディッシュなのに。色気づいた中学生男子の整髪料に、女子の化粧に、悶え苦しむいじらしさが宿る。AはAでいられず、Bを求めていく。その過渡期が美しさであるし、ユーモアもその辺りに生息しているのだ。

 レトリックで出てくる味が、さらになにかを深めていくのだ。そんなこんなで頭をぐつぐつ煮込む。なかなかに楽しい。

 

m(_ _)m

 

 

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)