meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『中国山地 過疎50年』。。。

f:id:meta-kimura:20170930162631j:plain

 最近ぐっと寒くなってしまって、ヒートテックのインナーを着るかどうか、まだはやいか、まだはやいか、踏み切るか、いやいやまだまだ、などと悩み込む季節になってきた。半袖はすっかりお役御免である。一気に衣替えするのも億劫で、物置の中から長袖を1枚ずつひっぱり出す。今度の土日は、次の土日には、と、進む季節に抗うように衣替えを先延ばしにしてしまう。しかし、無情にも季節は進む。
 秋の先には冬が待っている。冬支度をせねばならないのだ。今年のテーマは断熱である。週末、ひとまずはお風呂の大きな窓を二重窓にすべく、ポリカプラダンとレールを買ってきた。ついでに金工用のノコギリも買って、キコキコとレールを切った。プラスチック製の長いレールはよくしなる。なかなか真っ直ぐには切らせてくれない。切って、窓のサイズに合わせてを繰り返していたらスグに日が暮れてしまった。夕方の日産「あ、安部礼司」がはじまったと思ったら終わっていた。それなりな肉体労働と、集中力である。晩ごはんをつくる気力はなかった。

 住むということがこれほどしんどく、消耗するものだとは思っていなかった。どうやら今までの住環境はかなりの部分がレディメイドだったようだ。自分のライフスタイルに合った商品がそこあって、あとはそれを取ればよい。簡単ではあったし、自分なりにカスタマイズはしてきたけども、これほどのDIYをするようになるとは思ってなかった。もともと肉体派でもなし。そこまでの興味も湧かなかった。
 だが今は借家に住む身であり、狭いながらに庭もある。できることが増えた。増えた分だけ、手間も増える。もともとこちらのライフスタイルに合っているわけでもない。合わないものだから、合わせる努力をしなくてはならぬ。オートフォーカスでは味わえない、マニュアルのムズカタノシサがそこにある。
 ありきたりだけども、地方に住むというのは凡そこういうことではないかとも思う。できることも増えるし、しなくてはならないことも増える。活動量は大きくなる。だから僕は、若い人ほど地方に行けばいいと考えていて、逆に高齢者は都会に住めばよいとも考えている。暴論だけど、そういう考え方である。

●◯。。。...

 過疎という言葉ができて50年経つらしい。ということは、50年前から過疎で、今もやっぱり過疎で、これからもその状況は続く見込みだということで、なんだかとっても衝撃的なタイトルだった。中国新聞の特集記事がまとまった本は「那須集落 6人になった」という、やっぱり衝撃的なルポではじまって、徐々に未来を見据えていく。
 田舎盛り上げようぜ、地域おこしやってやるぜ的なマッスルに一歩か二歩か三歩ぐらいは引いてしまうわたしにとっては、新聞風のバランス感覚がちょうどよかった。小田切徳美氏のインタビューの直後に、増田寛也氏のインタビューをのっけるところにも気概を感じた。いい本だなと思った。

●◯。。。...

 帰り道、秋の夜長を歩きながら、こりゃあ「衰退の美学」が必要なんじゃないかとか思った。「成長の快楽」は麻酔なのかもしれない。人が増えること、盛り上がること、右肩上がりなこと、稼げること。それらはそれで大切なことだけども、美意識をもった衰退や消滅や撤退にも、頭が下がる。それもまた、英雄であるし、感動を生む。
 そういう「衰退の美学」みたいなものは、多分、かなりの部分でナルシズムを含んでいて、それでいいんだろうなと思った。その場所に住んでいる人の幸せを、他所からの流れや人や情報が邪魔してしまわないといいなとも思った。

 過疎地を担ってきた昭和一桁世代が80歳以上になっているらしい。さすがに地域のあれやこれやを支えられなくなっているという話である。50年経った現場の断片集。感じることも、考えることも多い。

 

m(_ _)m

 

 

中国山地 過疎50年

中国山地 過疎50年

 

 

怠惰に埋もれるわたしとMADARAのお土産な話

f:id:meta-kimura:20170917111610j:plain

 9月の3連休に有給1日くっつけて名古屋に行ってきました。途中、大阪に寄ってビブリオシアターを友達と一緒に眺め、三重で家族連れに揉まれながらヤオ・テンセンを見て、友達の家で台風をやり過ごしつつ『月刊少女野崎くん』を読みまくり、NPOのための情報発信講座MADARAを撮って、最終日は大学時代の友達と昼飯食いにいくという、なんだか詰まってんだか手持ち無沙汰なんだかわからない内容でした。書いてみると結構予定があるように見えるんですが、実際には時間を持て余し気味な感じで、意外と遊ぶ相手がいないもんだなぁ、とか、台風が来なかったら夜も誰かに会えたかなぁ、会えなかったかなぁ、などと妙にぐるぐるしてしまっておりました。
 結局、会ったところで話が盛り上がるわけでもないんですけどね。
 戻ってきたら戻ってきたで、掃除や洗濯や買い出しをして、提出書類を整えて、とりあえずで10月のイベントのホームページを改修したりしてたら、MADARAの御礼もできないままに日々が流れて、うーん、いつからこんな筆不精になってしまったんだろうと自己嫌悪に陥ったりして悩む間に、椎名誠の『哀愁の街に霧が降るのだ』上・中・下巻が読み終わり、NHKラジオでやってた土屋賢二のサタデーエッセイを聞いて、そうか、『論より譲歩』にぼくが考えていたことのヒントがあるんじゃないかと思ってしまったりしていました。
 うん、『論より譲歩』はどこかで読もう。

●◯。。。...

 さてさて、MADARAに来ていただいたみなさま、企画・運営なみなさま、どうもありがとうございました。このブログで告知もしたから、ちょこっとイベントアフターなことも書こうと思います。と言っても、あんまり書けることもないですね。講座の内容は講座の中にあるもので、外に引っ張り出すもんじゃありませぬ。
 書きたいことと言えば、講座に参加されたみなさまには「用語」を持って帰ってもらいたいということです。
 特徴的な言葉がいくつかありましたが、個人的にはあれがお土産になっていると思ってますので、ぜひ頭の中で使ってみてください。そんでもって、使用時には「この使い方でいいのかな?」「意味はあってたかな?」と思いながら使っていただくのがいいと思います。意味を固めないで、ちょっとフワフワした状態で使っていってくぐらいが丁度いい按配です。キチンとした理解をしないで、でも、それ自身に宿る意味があると、ある種の思い込みや勘違いをしてみてください。
 そうすると発見やひっかかりが出てくるハズです。新しい言語を習得するようなもので、英語的世界から見れば、日常はちょっと違った表現になるのと同じです。見方に動きが出ます。その動きを楽しんでみてください。見えなかった情報が見えてくることもあります。使ってみたけど肌に合わなくって、使えないやーいと投げ出したくなる自分に気づくこともあります。提示されたのは既知のようでいて未知の言葉です。存分に練ったり、立ち向かったりしていただくのをオススメします。
 教室で捏ねたい方は、どうぞ門を叩いてみてくださいませ。

●◯。。。...

 熱気や真剣さや、考えたという経験そのものも、とても大切な価値なのですが、それらは一方で日常に持ち込みにくいものであったりもします。だから、ふとしたときに、ちょいと頭に浮かんだ「用語」を使ってやってください。

 ここではとりあえずこれだけ。参加された方へのヒントになれば、幸いです。

 

m(_ _)m


告知のときに書いたのはコチラ ↓↓↓

meta-kimura.hatenablog.com

 

 

 

知の編集術 (講談社現代新書)

知の編集術 (講談社現代新書)