meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

こんなもんスグできるやろ案件

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 お客さんから苦情をいただいたらしい。たまーにあることで、それ自体はどうっていう程のことでもない。流れ弾に被弾したようなもんであって、要は運が悪かった。たまたま電話に出たのがワタシだったのだ。それはみんなもわかっている。わかっているがやるせない。愚痴っぽくて申し訳ない。
 いわゆる、こんなもんスグできるだろう案件であった。このぐらいのこと、スグにできるだろう、ちょっと急げば何とかなるだろう、無理言えばできるんでしょう、そうでしょう。そんな押し込み案件である。こういうのは、結構な頻度で現れる。
 簡単そうに見えても、できないものはできないのである。ここをわからない人が一定割合いるようで困る。写真を撮るなんて、シャッター押すだけでしょー。かんたん、かんたん。ちょちょいとやってきてよー。なんて人に巡り会ったことはないけれど、写真撮影ってそんな複雑なことやっとったんかいな!と驚かれたことならある。デジカメだって現像が必要になることだってあるのだ。
 人が思っている以上に他人の事情はこんがらがっている。メール1通送るのにだって、数日かかることだってあるのである。

●◯。。。...

 この種の案件への対応は、大きく3つの場合に分けられる。どう足掻いても間に合わない場合、無理すれば何とか間に合う場合、余裕で間に合う場合。グラデーションにはなっているが、ざっくり分ければこの3つだ。
 どう足掻いても間に合わない場合の答えはシンプルである。謝って、理解してもらうしかない。なんで謝らなきゃならないのかは不明であるが、そういった文化の中に生きてきたからには仕方がない。申し訳ございませんが、と言うより他ない。厄介なのは2つ目以降の場合である。
 無理すれば何とか間に合う場合は、無下に要求を断ることもできなくて悩む。残業すればできる、他の仕事を横に置いておけばできる、ダブルチェックを省けば、決裁を事後にしてしまえれば。杓子定規にスッパリスパスパ切ってしまえればいいけども、それはそれで角が立つ。うーんと悩んだ末に、仕事だからと引き受けてしまう。
 そんでもって、大体の場合は何とかなってしまう。これがまた悩ましい。無理すればできる、のときは、大抵できる。裏技使ったり、ショートカットしたり、完成度下げたりすることを「できた」と表現していいかどうかは置いておいて、何とかできてしまう。これがよくない。次からはそれが基準にからである。前にできたことは次にもできる。この論理が首を絞めてくる。無理してくれてありがとう、は、次の瞬間には、やってくれて当たり前になる可能性を秘めている。人間はこわい。
 このリスクが、次の場合の対応をためらわせるのである。建前上で無理ですよー、と言ってるだけで、実は余裕で間に合う場合である。余裕で間に合うのであれば、気前よく、ほいさ、できますぜっ旦那、と言えばよい。言えばよいけども、それ、わたしだから対応できるんですぜ、ってときがあるのだ。このやり方をするとスグできる。うまくできる。そんな方法があるとしても、それを後任者ができるとは限らないのである。やり方を引き継ぐことができればよいけども、古今東西、引き継ぎが完璧にうまくいくことなどないし、むしろ引き継ぎなんてないに等しいことの方が多い。
 その結果、ほいさっ、と気前よく返した返事が、ブーメランのようにまわりまわって、将来自分の席に座る人の胸に突き刺さる。実際、前の人はやってくれました!と主張されたことがあった。前の人のサービス精神が、繁忙期のわたしの残業となる。切ない構造であるなと思った。

●◯。。。...

 ゆえに、嘘でもなんでもいいから、作業に余裕を持たせるための演技もするのである。スケジュール見積もるときはちゃんとサバよめよー、と、むかーしむかしに言われたのだ。余裕でも、渋ったり、焦ったりしておけば、相手のサービス当前水準は上がらない。何とか間に合わせたときも、必要以上に汗をかいた雰囲気を装えばいい。
 妙な話なのだ。
 サービスの質を上げるのはよいことなのに、上げないように努力をしているのだから、歪な構造のような気もするのだ。さらに言えば、無茶振りは成長や効率化の機会でもあったりするから、はてさて、どうしたものやらと首を傾げたくなる。
 ただ、質を上げたのであればそれなりの報いがあっていいと考えるならば、無理をきいたときにはチップでも渡して欲しいもんだと思わなくもない。いや、こういう言葉もブーメランするから、控えておいた方がいいのかもしれない。というか、そもそも、無理言ってくるような人がチップとか渡してくれる気がしない。

 

m(_ _)m

 

 

 

根拠と根拠っぽいもの

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 統計データを信じてもらえない、という話が我が家の食卓に飛び出してきた。曰く、政府統計のデータを使っているのに根拠として認めてくれない、とのこと。
 策を打つには現状を知らなければならない。それは至極当然ごもっともである。しかし、現状把握と言っても、何でもかんでも今の状況をそっくりそのままトレースできるもんでもない。だから人は統計データだとか、マーケティングデータだとかを使って近似値を求めようとする。それしかないのである。渋谷区の年齢構成を知るために、ひとりひとりをつかまえてインタビューするなんてこたぁ、どだい無理な話なのだ。なのになのに、でもでも、どうやらサンプリングしたり、推定したりした数値を、根拠とは思ってくれないようなのだった。
 そんなに精密でなくてもいいじゃない、とも言いたくなる。というか、そもそもきちんとした統計であればそれなりに正確なのである。なぜに信じてもらえないのか。

●◯。。。...

 人は根拠よりも根拠っぽいものを信じる。根拠にはいくつかの神話があるような気がするのだ。例えば、既に加工できるってことを知ってるくせに、写真神話と音声神話はかなり強い。まぁ、たしかに加工するのがめんどい。そのめんどい分のコストをどこか考慮に入れての信仰なのだろう。
 個人的にそろそろ辞めて欲しいなと思うのは、紙もの神話である。システムから抽出した顧客データと、同じシステムからプリントアウトした顧客リストがあるとして、なぜか前者は信用ならんものとして扱われたりすることがあって驚いてしまう。同じデータベースからひっぱってきているのにも関わらず、なのだ。元が同じだから出てくるものも同じなんだけど、結局、それら顧客データを整理するために大量の紙と長時間の人の眼仕事が注ぎ込まれてしまう。またそういうときに限ってデータ入力時のヒューマンエラー対策はザルだったりするから、理不尽というか、社会は容赦がないのである。
 データのまま扱う不安は、わからなくは、ない。わからなくはないから、エクセルの計算式を読もうとする歩み寄りもちょっとはあっていいんじゃないか。確認すべきは入力と出力をつなぐプロセスじゃないか。プロセスが正しけりゃデータを流しこめばいいじゃないか。ないかないかっ。と、いうのはぼくの淡い期待であり、若気の至りに似た何か、だ。これについては半ばあきらめた。
 根拠っぽいものを積極的に使っていった方が、めんどくさくなくてよい。急がばまわれ。まわりたくはないけれど。

●◯。。。...

 要は不安なのだろうと思った。正しい根拠が根拠っぽくないから安心できないのである。ぐらぐらした、キリキリした、そわそわした、その気持ちはどこから出てくるのか。そこが問題になっているような気がするのだ。
 では、根拠っぽさは麻酔なのだろうか。本当にそういうものなのだろうか。

 

m(_ _)m

 

 

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題