meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

マネジメントだとか、組織のことを考える。

 

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 「マネジメントにとって、一番大切なことは何だと思いますか?」と聞かれて、困ってしまった。いつかどこかで受けた面接でのことである。はっとして、むっと黙った。ビジョンを共有すること、なんてありきたりな答えがおそらくの正解かもしれない。しかし、そんなことが功を奏するとも思えなかった。苦し紛れに口から出たのは「無理をさせないこと」だった。一周まわって、やたら陳腐でチープな答えになってしまった。これは失敗だったなと、あとで思い返した。
 なぜそんなことになってしまったのか。それは、未だに「気持ち悪さ」の正体が掴めていないからだ。わたしにとって、マネジメントは「気持ちいい」と「気持ち悪い」に分けられている。この気持ちの問題がほどけないでいるのだ。

●◯。。。...

 人と人の関係はフクザツ系である。おかんに「醤油とって」と言われるのと、友達に「醤油とって」と言われるのでは、全くもって快さが違う。これが「醤油とってくれん?」に変わると、また印象が変わる。もちろん、レストランで食べているのか、家で食べているのか、どのようなメンバーで食べているのか、状況によってコロコロと気持ちが変わる。Aを入力したから、Bが返ってくるというものでもない。
 だから、気持ちが悪いといったとき、どうして気持ちが悪いのかと問われても困ってしまう。原因があった結果、気持ち悪いという結果が出てきました、と言い切れないのだ。そして、原因が取り除かれましたので気持ちいいでしょ、と言われても困惑した表情を返すのみとなってしまう。

●◯。。。...

 これはもうアートである。マネジメントはある意味で職人芸とも思える。あらゆる状況をそれとなく感じて、意識的に、もしくは無意識的にその場を支える。傾聴だとか、面談だとか、そういった類のツールはいくつか用意されているし、コツもあるだろうし、それらを軽視するつもりもないけども、なにかそのようなノウハウでは語られていないところの霧があって、そいつをうまく扱おうとすることにもっと目を向けた方がよいのかもしれないと、考えている。
 雰囲気とか、文化とか、そういった言葉に近いか、どうか。今のわたしの言葉で言えば、スタイルや姿勢や、様子や文体なのだろう。そこが経営理念やビジョンや目標と重なってくると、気持ちのよさが前に出てくる。逆に、攻撃的な言葉で平和を求めるデモ行進には、距離を置きたくなる。それが気持ちいい人たちもいるだろうし、そうせねばならぬ状況も理解できなくはないから、否定はできないけども。

●◯。。。...

 こう書いてくると、言行不一致だと気持ち悪くて、一致してると気持ちいいって話になるのだが、そうでもないのが厄介なのだ。筋が通っているのは確かに気持ちがいい。しかし、筋が通っているかどうかよりも、筋が通っているっぽいかどうかの方が大切であることが多い。指示を出すにしたって、指摘するにしたって、反論の余地のない正しさをぶつけられたら、防御するのが常である。
 智に働けば角が立つ、である。情に棹をさしつつズラすが理想であって、その理想自体も正し過ぎる正論とも見える。とかくこの世はめんどくさい。めんどくささを積みかさねて、やっと文化や土壌が見えてくる、、、と、いいなぁ。

●◯。。。...

 冒頭「無理させないこと」と答えてしまったことを書いた。これは、上からも下からも無理させないが大切だなぁ、しみじみ思ったからであった。容量が一杯になると、自分が見えなくなる。理想高く、やることばかりを詰め込むと、自分の欲望にも気づけなくなる。欲を受け入れる余地がなければ、いずれ暴発する。
 以前、男の子はいつになっても、どれだけ意識をしても、マウンティングしたがるものなのだなと痛感したことがあった(自分自身も含めて)。対等なんてあり得ないものであることも、大いに身に染みた。そこから始めることができるかどうかが、決め手なのかもしれない。そこから始められる状況が、まず最初にあって欲しいとも思う。

 

 

m(_ _)m

 

 

ダイアローグ 対話する組織

ダイアローグ 対話する組織

 

 

われら、後始末世代。

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 あけましておめでとうございます。2017年が閉じて、2018年が開きました。実家に寄生、いや、帰省中の身にて、絶賛寝正月のゴロゴロまっただ中にいます。様式が定まっているような、いないような、曖昧な儀式的いつものことをやり過ごして、毎度毎度の新年がはじまります。今年も、どうぞよろしくお願いいたします。

 はてさて。
 新年の初っ端に何を書こうかと悩みながら散歩に出て、年末は非営利組織のマネジメントが問題になってたなぁ、などと頭が巡り、巡り巡って、そういえば「後始末世代宣言」はしてなかったというところに行き着きました。これ、後始末だよなぁ、ってことにもう少し自覚的になってもいいのではないかとか、考えていたのです。

●◯。。。...

 われらは後始末世代なのです。まぁ、バブル以降は大概が後始末なんだと思ったりもするんですが、ジャパン・アズ・ナンバーワンの幻影がその後も少し残っていたと考えると、氷河期世代でいよいよダメ感が顕になって、ゆとり世代が社会に出てきたぐらいのタイミングでいよいよ人口減少社会に突入となります。
 ちなみに推計では、2017年の日本の人口自然減数は40万3000人というニュースが流れていました。長野市宮崎市の人口と同じぐらいらしいってことですが、島根で言うと松江市出雲市がまるっと消えた感じになります。一番人口が少ない鳥取県が56万人ぐらいなので、県規模で見てもかなり消滅感がありますね。もともとの県の人口が少な過ぎるって話は、もちろんありますが。
 年末には、NHKラジオからしきりにプライマリーバランスであるとか、国の予算に占める借金の割合、なんて言葉が聞こえてきてました。1000兆円を超える借金があるやらないやら、それは大丈夫なことなのか、そうでないのか、やんややんや。あまりに危機感を煽ると、それはそれで一気に雪崩がおきちゃいそうで、聞いてる側としてはなんか無駄にハラハラしちゃったりもしていました。
 成長を前提とすることはできず、人口は減り、打ち出の小槌は使えない。高齢化社会に対応するための予算は膨らまざるを得ないような気もするし、耕作放棄地も、空き家も、管理ができない山や土地やがガシガシ出てきます。近い将来には現代版の山賊が出てきてもおかしくねーなー、と思ってます。これら種々諸々をどうすっぺか、ってのが後始末世代の課題です。
 何も詳細がない持論・暴論ですが、まぁ、そんな風に考えてます。われらが後始末せんと、次の世代が育たんとです。

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 人口減少問題は、人口構成問題です。人口ピラミッドが逆三角形に、頭でっかちになっていることが危険なわけです。多数の高齢者を、少数の若者で支えなきゃならぬ、という状況に社会システムが対応していないってとこが、しんどいのです。支えなきゃならぬの若者は子供を育てにくいわけで、そうなると逆三角形は面積を縮小しながら続いていくという結論になります。団地でも、会社組織でも、同じです。同世代の人員を一気にどかんとぶち込むといずれ同種の問題が発生します。正直、なんでこーなったねん、という気がしないでもないですが、こーなってるものはしょーがないです。
 今のうちに、気合を入れて、決断をして、できるだけの掃除と整頓をしておきたいという気持ちにもなります。ひとまずは逆三角形のシステムとスタイルをつくっていく必要があるのだろうと、そんなことを思ってます。

 

 

 

m(_ _)m

 

 

 

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