感門之盟について、あと2つ書いておこうと思う。「 内輪感 」
と「 わからなさ 」について。
【 感門之盟の内輪感 】
こんなこといっちゃあナンだが、感門之盟ってのは新参者にとって
は、なんとも退屈なものであったw やってることといえば、守、
破、遊、花伝所などなどの師範、師範代が次々に呼ばれて、松岡校
長から表彰される。ねぎらわれる。そりゃ、師範代とか全部と関わ
りがありゃいいけど、全く見ず知らずな人が呼ばれて、コメントし
て、プレゼントもらって。。。 疎外ってほどじゃないんだけど、
なんだろ。まるで、「 間違えて隣の高校の文化祭に来ちゃった 」
ぐらいの違和感はあった。僕はなんも知んないんだけど、みんなは
勝手知った風にお祭りを楽しんでいる。
【 松岡校長からそれぞれの師範代に本を贈られる。 うらやま! 】
それが、けっこうたのしそーなので、混ざりたくはなってくる。
けど、混ざるためには、編集学校の階段をもうちょっと登って、友
達を増やして、仲間になっていかなくてはならぬ。巧妙な内輪感を
出すもんだ。って、そこまで考えてやってるのかは知らぬのだがw
ある種外部的に、わいわいやってる内側をみてると、やっぱりうら
やましくなるものなんだろうか? 自分が主役じゃないと、主役に
なりたいものなのか? ぐったりしつつ、まどろみつつも、あのス
テージに立ってる気分ってどんなんだろう、とも思ってしまう。い
いなぁ~、あんなプレゼントもらっちゃって、ってね。
ISIS編集学校で教える師範代や師範って人は、それはもう大変で、
それぞれが受け持つ生徒から毎日大量に送られてくるメールにひた
すら「 指南 」を返す。もう、このメールの文章量は半端じゃな
いw なんせ、編集学校ですからw
そんでもって、だいたい睡眠時間を削って行われるこの指南に対し
て、おそらく、たぶん、給料は出てないんじゃないかな?w なん
でやってるかって、向学心なのか、探究心なのか、はたまた、信仰
なのか。。。 この「 教える側 」を如何に育成するか、動機づ
けるかってのは、ISISの背骨でもある。そう考えると、この内輪感
って、師範代への道を示すための仕組みなのかなぁ、とも見えてき
てしまうのだ。
本当のところ、どこまで演出が考えられているのかは、わかんない
んだけどさヽ(´ー`)ノ
【 松岡正剛のわからなさについて 】
「 松岡正剛って、わかんないよね 」って話はよく聞く。わかり
やすさを求めてないんだろうな~ってのは、最初に『 フラジャイル 』
を読んだときからの感触だった。今回の感門之盟でも幾度も前に出て
来ては、話す。 それが、意図してのことなのかどうなのか、僕の個
人的感覚では、ほんとに「 わかりにくい 」
内輪の会だから、気にせず、のびのびと話してんのかなぁ~、とも思
う。自身のindexから引き出される知識に、全く追いつけず、語彙の
多様さにも唖然とするばかり。言い換え( 例えば、編集と言ったり、
エディットと言ったり、デザインと言ったり、読書と言ったり )は、
そこに共通する不変項を際立たせる反面、語の連想に拡散する。
僕にとってそれは、決して「 答え 」ではなく、「 問い 」だった。
ある種のわからなさを提示され、それについてみんなが考えていく。松
岡校長はみんなが目指すポールを立て、もしくは土台をつくるだけだ。
わかりづらさに挑んでいく。わかりづらさこそが、魅力に思える。
「 わかりづらさ 」は、「 わかる 」になった途端終わる。「 わ
からない 」と処理されても、終わる。その先になにかあるように思わ
せて、しかし、答えは言えない状態が必要である。松岡正剛っていう、
知の巨人をマスコットに据えることで、「 その境地 」があるように
思わせてる。( いや、実際あるんだろうけどもさ。。。 )
あるんだけれども、ないように見えて、だから創り上げていくしかない。
この雰囲気が好きなんだよなぁ。
つまるところの、「 up to you 」自分で見出していくしかないのだ。
【 松岡校長との一枚 無理矢理撮った感がいなめない。。。 】
わざわざ東京まで行って、参加する価値のある会か?と感じてはいたもの
の、振り返ってみると、それなりにおもしろいイベントだった。同じ教室
で、共に編集したメンバーにも会えたし。
ISIS編集学校「 破 」に進むのは、半年後と決めている。その先で見え
る風景に期待しつつ、今の狭間にゆっくりと充電しよう。