寄付ってのはわけがわからんお金だ、ってことを書い
たことがある。お布施、賽銭などの宗教的なものから
はじまり、24時間テレビやら、赤い羽根やら。今で
は、NGO/NPOへの寄付ってのもあって、寄付を
増やすことをファンドレイジングなんて呼んでいたり
する。
いや、正確にはファンドレイジングは寄付を含む收入
全般についての言葉か。
まぁ、とにかく、震災支援もあって寄付は大変身近な
ものになりつつある。ファンド型やら、クラウドファ
ンディングやら、手法も多様だ。よく「 寄付文化が
ない 」と言われ、“一人当たりで見れば、アメリカ
の人達は日本人の40倍も寄付をしている”(『成熟
日本への進路』から引用)ってな状況の日本だが、こ
れから少しずつ、浸透していくんだろう。震災で膨れ
上がった寄付市場をいかに縮めずに、みんなの日常に
落としこんでいくか、が課題なのかな。
成熟日本への進路 「成長論」から「分配論」へ (ちくま新書)
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そんな寄付について、最近おもしろい話を聞いた。
福島で活動している方が「 寄付をもらうのは、意外
とツライ 」って話をしていたのだ。活動の仕方にも
よるのだが、その方は私財をつぎ込んでしまっている。
だから、寄付を「 ◯◯な事業に使います 」って形
では集めていなかった(ハズ。。。(・_・;))。寄付
はその方の生活費にもなる。寄付に支えられて生きて
いく、そのことがツライのだ。
寄付で生活していると、変なプレッシャーがかかって
しまう。プレッシャーを感じないぐらい図太ければい
いんだろうけど、そこまでの精神もない。何も提供し
ていないのに、お金をもらってしまっていいのだろう
か、、、と。
その方は「 日本人は寄付をもらい慣れていないんじ
ゃないか 」とも言っていた。海外なら宗教の他にも
チップの文化がある。物乞いもある。他人からめぐん
でもらって、それを当たり前のように受け取る習慣み
たいなものがあるのかもしれない。それに対して、日
本は子どものときから“お金は労働の対価”と教えら
れる。お小遣いも、おつかいやお手伝いありきで与え
られることが多いんではないか?働いてもないのに、
お金なんてあげられない!もらえない!ってことだ。
さらに言えば、貨幣が一般大衆にまで浸透してから間
もないって話もあるかもしれない。農村部がしっかり
と貨幣経済に組み込まれた時期を戦後と考えると、60
年ぐらいしか経っていない。近所にお店ができて、お
小遣いをもらって、お菓子を買う。そんなことができ
たのは1960年代以降じゃなかろうか? 詳しくないか
らわかんないけど。誰かお小遣いの歴史を調べてみて
欲しい m(_ _)m
文字通り「 小さな遣い 」でお金を得てきた私たち
は、寄付をもらって生きることに戸惑ってしまうわけ
だ。「 ◯◯を建てます 」とか、「 △△に使いま
す 」って宣言しとかないと落ち着かない。このお金
は自分のためには使えない、と感じてしまったり。そ
んな感覚って、個人的には謙虚で素敵だなぁ、と思う
んだけど、これからのNPO経営を考えるとちょっと
駄目だなぁ、とも思う。事業のためのお金ばかりでは、
自己投資できなくなっちゃったり、自分をいたわる方
向にお金が使えなくて、そのうち息がつまっちゃう。
ちょっと難しい話をすると、寄付を行政からの委託事
業のお金みたいに扱っちゃうと、どんどん首をしめて
しまう気がするのだ。具体的に言っちゃえば、震災の
活動支援金が、支援活動団体の社員旅行に使われても
いいんじゃないの? と、思うわけだ。
その事業のためじゃない。
その寄付先のためのお金なのだから。
って、言っても難しいよね。ながらく浸かってきた習
慣に逆らうのは大変だ。もし、僕が寄付したお金が社
員旅行に使われても、なんだかなぁ、って感じにはな
っちゃいそうだし。( ちゃんと寄付先との関係を考
えれば、そんなに違和感はもたないだろうけど )み
んなはどう感じるだろうか?
さてさて、ここまで寄付を出す側の習慣と同時に、も
らう側の憂鬱も乗り超えていかなきゃ、ならなさそう
だぞって話をしてきた。こっから、日本の文化に合っ
た寄付ってのはどういう形なのかを、誰か模索してい
ってくれい!
ヽ(´ー`)ノ ( 他力本願 )