9月最後は愚痴である。予めご了承願いたい。
●◯。。。...
医療機関で働いていると、ちょいちょい他人の命を盾にして持論を通そうとする暴論に出くわす。そんな体制にして業務が止まってしまったらどうするんだ! そんなことでコロナが持ち込まれてしまったらどう責任をとるつもりだ! こういう言葉の表には、人の命がかかっているんだぞ、という究極のシールドが貼ってある。そんでもって裏側には、主張を通したい、出世がしたい、楽がしたい、ただわがままを貫き通してマウントをとりたい、という黒々とした塊がうごめいている。あまり気持ちのよい言葉ではない。
何回も書いていることだけれど、100%正しい主張というのは強く押し付けるものではない。反論の余地がない、返す言葉がみつからない、という状況は既にコミュニケーションの範囲からはみ出していると思っていい。それはキャッチボールではなくて、一方的にボールをぶつけているだけである。ドッチボールでさえない。
こういう言葉で攻める人を見ると、大変申し訳ないのだけれど、幼稚だなぁ、と思ってしまう。反論もできないしやたらに強情なので、状況としては大変困るんだが、それはそれとして、内心では相手に対しての気持ちがすーっと冷えていく。ああ、この人は極論に頼るしかない人なのだな、と思ってしまう。
暴論は暴論である。極論は極論である。人の命を守らなければならない、という100%正しい(実際にはそれにも異論があるだろうけれど)主張は、暴論や極論を加速させてしまう。正しいからこそ、躊躇いなく主張し、罪を感じずに押し通すことができる。その自覚もないままに、まさしく我が意見だというように言い放つ人は、困ったちゃん以外の何者でもない。
大鉈を振るってはいけないのだ。その鉈は、諸刃になっている。コミュニケーションを断ち切り、周囲の人間を冷やし、信頼を失っていく。議論をするならば、相手に意見を受け入れて欲しいならば、自分も柔軟でなくてはならない。どんな局面でも、そのことを忘れてはいけない。
ただし、大変に残念ながら、世の中の摂理は「無理が通れば道理が引っ込む」であることも事実だろう。無理を通す力だけで成果を上げて、昇進する人もいてしまう。
問題はそこなのだ。よき人がよき道を歩めるような社会になっていくように、じっくりと仕掛けていかなくてはならない。
m(_ _)m