meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

紅葉と写真と成長

f:id:meta-kimura:20201123104414j:plain

 先週、紅葉を撮りに行ったのだけれど、残念ながら、ほとんど散っていたのか、それとも、そこはもともとそんなにもみじや銀杏がないスポットだったのかわからないが、ともかく、あんまり紅葉らしい写真が撮れなかった。いつもながらに、ちらほらと見てまわって、それなりにパシャパシャと撮って、そこまでテンションが上がらないままに帰宅した。
 ちょっと欲求不満。しかし、その欲求ってのは何なのかと言えば、自分にもよくわからない。キレイな写真が撮れたからといって、それが何なのだ。何になるのか、何かもらえるのか。もちろん、もらえるわけがない。ただ、撮っているだけなのである。

●◯。。。...

 趣味は写真です、と言い始めたのはいつ頃だったか。多分、最初に転職した頃には、履歴書の趣味欄に「写真撮影」と書いていただろうと思う。そう考えると、もう10年以上撮っていて、それなのに、未だに目的のない撮り方をしている。ただただランニングが好き、という人がいるように、ただただ撮るという行為が好きなのだ、と思っていた時期もあったけれど、それもここまでくると、ちょっとした惰性感が漂ってもくる。
 うまくなりたい、と思うこともある。だけど、自分のスタイルを考えると、どうも技を身につけるような感じにならない。技術は技術と認識されることで、磨くことができるようになる。露出も、構図も、それをそれとして意識して、初めて上達のスタートラインに立つのである。ぼくの場合は、のべつ幕なしで、あんまり成長しない撮り方ばかりをする。それがよくないと知っていつつ、それがやめられないのだ。

●◯。。。...

 成長が見えないってのは、それなりに辛い。数学や英語のように、勉強すれば点数があがっていくような感じであれば、もっと楽しいのかもしれないなと思うこともある。そういう発想で、SNSにアップして「いいね」がたくさんつく写真を目指そうとしたこともあった。結果、料理系の写真に多くの「いいね」がつく傾向があるということと、自分がいいなぁと思った写真には「いいね」があんまりつかないことがわかって、やめた。アップする時間によっても「いいね」の数が変わる。そういうアルゴリズムを読むのは、ちょっとめんどくさい。
 振り返れば、写真の機材も、もう5年は更新していない。PENTAXに至っては、シャッターの動きがもう不安定過ぎて、撮りたいときにシャッターが切れない状態になって、久しい。写真で新しいステージに進むための手っ取り早い一手は、機材の更新である。カメラやレンズが変われば、描写は変わる。今朝、ふと思いついてNIKONのZシリーズの作例を見てたら、ダイナミックレンジがむちゃくちゃ広くなっててびっくりした。世間の写真も、どんどん成長してる。

●◯。。。...

 写真に限らず、成長は人間にとっての最高のエンターテイメントだ。多分、2~3年前ぐらいから、そう思うようになった。意識高いってわけじゃないけれど、やっぱり、できなかったことができるようになったり、そういう達成が他者から認められたりすることは楽しい。承認欲求を満たす。
 その快感に溺れちゃう人もいるのだろうけど、そうでない、健全な範囲での成長意欲はあった方がおもしろい。ずーっと停滞したままで、次の段階に進まないでいると、どこか腐ってしまう。こじらせてしまうぐらいなら、素直にすくすくと伸びればよい。その方が自然である。だから、経済だって成長すればよいのである。今は、とってもシンプルに、そう思う。
 停滞や現状維持にだって無理が出てくる。長年に渡って付き合っていくなら、それなりの成長感がないといかんのだなぁ、ということを、最近考えている。

 

m(_ _)m