meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

取り残される感覚

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 12月になった。年末、年の瀬、師走。走っている師匠を見たことはないけれど、どことなくせわしなく、どことなくそわそわした日々を過ごしている。今日は、そんな落ち着かなさの隙間。年末までに消化しなきゃならないらしい有給をとって、これで晴れて無罪放免となる。休んでいないと、そろそろ休めと言われる。ありがたい時代になったもんだなぁ、と思う。
 午前のうちに、門出祝いを買いに行った。どうやら隣に住んでいたご家族が引っ越すらしい。昨日の夜にそんな連絡が入った。結構ショッキングなニュースだった。
 それほど交流があったわけでもないけれど、それなりに交流があった。貰い過ぎた野菜や果物を持っていったり、作り過ぎたお菓子を分けてもらったり、たまーに外で遊んでいる子供たちにちょっかいを出してみたりするぐらいの、本当によき隣人だった。
 今年に入ってからは、コロナのせいで気軽に接触するわけにもいかなくなってしまい、距離がぐっと離れていたように思う。久しぶりの連絡が別離の知らせだったのは、予想外の展開であって、率直に言って、淋しかった。

●◯。。。...

 聞くところによると、新しいステージに進まれるらしい。それは喜ばしいことだよなぁ、と思う裏側で、妙に取り残されてしまったなぁ、という感情も湧いてきてしまう。今まで、自分が先手を打って出ていくことが多かったからか、残される側の感情の扱いに慣れていないような気もする。名古屋から島根に移ったとき、島根から岐阜に移ったとき、それぞれの転機で周囲の人にこういう感覚を与えていたのかもしれない。
 去る方は淋しさより不安が勝つ気がする。残る方は淋しさをダイレクトに受け取る。そして、なんか取り残されちゃったなぁ、という感じになる。新しい局面に切り込んでいく隣人の姿が、眩しいのだ。自分も4月に転職したばかりだというのに、不思議なものである。喉元過ぎれば熱さ忘れる、とはいえ、ちょっと忘れるのが早い。そんなに新展開ばかりつくっていては、疲れてしまうのもわかっているくせに、何かというと熱さを求めてしまう。
 隣の芝生は青い。まさしく、そんな感じである。

●◯。。。...

 裏を返せば、そういう取り残され感を持てるぐらいの余裕が生まれてきたってことなのかもしれない。たぶん、自分が渦の中にいるときには、そんな感傷に浸る隙はないだろう。ぼくの今の状況が、どこかで停滞しているのだ。
 コロナでの動きづらさをずーっと抱えながら、次の一手を探してきた。今のところ、あんまりそういう一手が見えてこなくて、やんわりとしたやきもきを続けている。今回の取り残され感は、そろそろ具体的に動きなさいよ、という合図なのかもしれない。具体的な動き、ってのが何なのかはわからないけど、とりあえず、変えられるところから変えていこうと思う。

 

m(_ _)m