図書館で見かけた『輪中』を読んだ。なんだかだいぶと古く、わりとハードな内容だった気がするが、それなりのスピードで読み切ってしまった。こういうのはたまにある。個人的には掘り出しものだったなぁ、と思う。
この地域に住んでいると、輪中の問題は避けて通れない。そのハズなのだが、まぁ、この本を読むまでそこまで気にしていたことはなかった。長島とか、海に近い地域のことだからなぁ、とある意味で甘くみていた。もちろん、そんなことはなかった。意外と山の方にも輪中はある。聞いたことがある地名が続々出てくる。あそこも輪中だったのか。てか、輪中ってなんだ。
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輪中は、輪中である。なんか説明は難しい。四方を堤防で囲まれていて、川の水面が土地より高いところ、ぐらいのイメージで捉えていたが、どうにもそうではないらしい。水防組織があったり、尻無堤とか、馬蹄堤とかいわれる、上流側や下流側に凸型になっている半円状の堤防があった地域もあるようで、もう少し多様だったようだ。洪水も、上流側からくるものとばかり思っていたが、そうでもなかった。河川の合流地点で水が溢れ、逆流するようにして下流側から水が来る。新田を開発し、あちらこちらで川を仕切ったり、流したりしたことで、上流や下流から洪水に攻められる。
当然、そこには輪中内の結束と、輪中間の対立が存在する。なんか、大きくは自然との戦いなのだけれども、少し、人災だったのではないかとも思える内容で、興味深かった。
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知識は、知識である。ただ、知っているということだけで、それ自体にはあまり価値を見出されない時代だなぁ、と感じる。そんでも、知っているだけで、視野が変わる。あなどってはいけない。
輪中においては、1mや2mの高低が大きな意味を持つ。そんなこと、考えたこともなかった。美濃はだだっ広い平野だと捉えていた。しかし、だからこそ、ほんの少し高い、微高地が重要なのだ。輪中内にも高低はあって、微高地は水に浸からない。浸かったとしても、低い土地に向けて水は捌けていく。まだ被害は少ない。
堤防を越えた水は、低い土地に流れていくけど、例えば、上流から入り込んだ水は、下流側の土地に流れて、下流側を守る堤防に遮られ、そこに溜まることになる。さて、この水をどうやって汲み出せばいいだろうか。そこまで思い至れば、やはり、少しでも高くないといけない。被害が長期化してしまう。
そうかぁ、と思う。だからあの辺りにポンプみたいなのがあったのか、と。水門があったのか、と。だから集落がこちら側にあって、ああ、なるほど、それで土地が安くて、あの場所に新興の商業地があるのか、などなど。その細かさに意味が見えてくると、理解が進む。この場所の治水の歴史はおもしろい。
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なんとなく、戦国ばかりが目立つ岐阜に対するとっかかりを得たような感触があった。こうでなくては、この地に住んでいる意味がない、という気がする。意味がない、ってのは言い過ぎだが、まぁ、そういう心意気なのだ。
住んでいる土地の文脈から切り離された生活は、味気ない。そういうところは、やっぱり、ぼくの特性なのだろう。もうちょっと掘っていこうと思う。