meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

それは格差ですか?

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 この前、ちらりと見かけた記事を読んでから、ちょいともやもやしている。その記事は教育系のもので、曰く、家庭の経済的な格差ばかりが教育の格差を生んでいるのではない、住む地域によって起こる教育機会の差や文化の差も格差の原因になっているのだ、というような論調であった。
 そもそも田舎に住んでいる人は、大学なんてものの存在を知らないし、自分の子供を大学にいかせようという発想を持たない。そのイメージが持てない「想像力の差」が根本にあって、そいつが見逃されてはいまいか、ってな主張はとっても納得のいくものだった。
 実際、地方にいると都会の手法をイメージすることさえできないって場面にちょいちょい出会う。例えば、「話し合い」という言葉の持つイメージが地方と都会では違っていたりして、そういう参加者の想像力の差がワークショップ的な何かの成否に関わってきたりもする。
 だけども、である。腑に落ちないのは、この状況が「地方民には想像力がない」という文脈で書かれていたことである。なるほど、格差が問題であると言うには、想像力が持てない状況を指摘せねばならぬのはよくわかる話ではある。しかし、少しぐらいは断りを入れて欲しいものでもある。地方民が都会民の持つ世界を想像できないのと主張するのであれば、まったく同じ論理で、都会民は地方民が持つ世界を想像できないとも言えるハズなのだ。つまりこれは上下がある「格差」の問題ではない。給料の高い低いではなくて、単に世界観や価値観が「違う」ということだ。言ってみれば「差異」である。

●◯。。。...

 住む世界が分かれていることを格差として扱ってしまうのは危険である。冒頭の記事を書いた人は、都会と同じように選択ができる環境、選択肢を想像できる力が必要であると結んでいた。その根拠は個人的な体験だと言う。自分は運良く東京の大学に出て学ぶことができたが、自分よりも才能がある人間が大学に行くという発想を持てずに地元に埋もれていった、とのこと。自分の人生を振り返っても、もし子供時代に都会のような文化的環境と教育機会があったならば、そちらを選んでいただろう、とのこと。
 気持ちはわかるけども、なんだかなぁ、といった感じになってしまった。人文的な素養なんてものがあるとしたら、ここがそいつを引っ張り出して活躍させるところではないだろうか。読み取りが浅かったら申し訳ないのだけども、都会的な世界にキラキラを感じる人もいれば、田舎的な世界にキラキラを感じる人だっているのだ。
 「差異」を「格差」として論じてしまうと、むやみに上下関係をつくってしまって、上の世界をよしとして、下の世界をあしとする構造にハマり込んでしまう。自分はハマりこまないぞと思っていても、他の人達ががっつりハマっちゃったりしてしまって、徐々に大きな流れになってしまうのである。西洋的価値観を文化的であると定義して、世界のあっちゃこっちゃに布教活動をしちゃったことと同じである。
 それは本当に「格差」なのだろうか?

●◯。。。...

 「格差」は是正すべきである。そう信じてしまえば、それが神話であることには気づけなくなる。そうして正義が他人の世界をズカズカと踏みにじる。
 人間生きていれば差があって当たり前なのだ。Life is not fairである。その前提から始まって、切ないことに、どこまでいっても差はなくならない。切ない努力を、切ないことを知りながらもやり続けるのだ、という自覚が必要なのだと思う。

 追記
 我ながら、こういう記事を書くのはいかんなぁ、と反省。なんだか陰口みたいになっちゃってるのだが、主な論点は起点となった記事への批判ではないのでご容赦願いたい。

 


m(_ _)m

 

 

 

学力と階層 (朝日文庫)

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電子書籍、大活躍する。

 

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 ここにきて、満を持して、電子書籍が大活躍である。
 岐阜から名古屋までの通勤が始まってスグに、電子書籍の価値が異様に高まった。なんて便利なのか。ライフスタイルが変わると、モノの価値も大きく変わるものらしい。
 松江に住んでいたときには電子書籍なんて必要がなかった。通勤はバスである。地方都市のバスがそんなに混み合うわけがない。いつも座席に座って、悠々と、ではないにしろ、ふつーに本を開くことができた。ふぃーっと座って、少し読み、気がつけば降りるバス停に着く。15分程度の通勤時間はとっても豊かであったが、本を読むには短かめであった。1冊の本をちびちびと読むのが、わたしの通勤であった。
 それが、である。引っ越してきてからの通勤は、電車とバスを乗り継いで、片道1時間と10分程かかるものになった。しかも、混んでいる。バスはまだ座れるけども、電車はよっぽど運がよくない限り、座れない。朝もはよから、満員電車である。東京みたいにぎゅーぎゅー潰されはしないが、パーソナルスペースは狭い。カバンは足元に置いて、片手でつり革を握り、バランスを保つ。さて、残りはもう片方の手だけである。
 はじめは文庫本を持っていった。薄い文庫本ならいけるかな、と思った。ハードカバーは論外になった。程なくして、物置に眠っていた電子書籍sonyのreaderを引っ張り出した。めっちゃ使えて、びっくりした。片手で持って、不自由なくページをめくることができる。そして、何より、軽い。読書量が一気に増えた。電車に乗っている30分ぐらいと、バスに乗っている20分ぐらいがわりと快適な読書時間になった。

●◯。。。...

 こうなると、sonyのreaderで続けていいのかどうか、不安になってくる。これから通勤時間が短くなる見込みがあるわけでもないから、基本的にはどんどこ電子書籍が増えていく想定になる。しかし、reader storeの品揃えは、お世辞にもいいとは言えない。そんでもって、電子書籍のデータって、汎用性がない。大変不便なことに、kindleのデータは、reader端末じゃ読めないのである。
 reader自体はとても軽くて好きなのだけど、だからといって、readerにがつがつ本を放り込むわけにはいかない。しばらく検討した結果、まぁ、kindleに乗り換えじゃな、という結論に達した。sonyには申し訳ないけど、やっぱり品揃えは多い方がいい。いつでも再読できそうな安定的な環境ってのも、大切なのである。

 実は通勤に使うことも含めてipad proを買おうと心に決めていた。なのに、ipad proを買う前に、kindleを買おう、今度のプライムデーのセールで買おう、と決心してしまった。
 今更、電子書籍装備を充実させようとするなんて、ほんとに思ってなかった。これは、予想外。家ではイマイチぱっとしなかった電子書籍が、ここにきて、その真価を発揮しはじめたのである。

 

 

m(_ _)m

 

 

Kindle Paperwhite、電子書籍リーダー、Wi-Fi 、ブラック

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