meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

【告知?】NPOのための情報発信講座MADARA(マダラ)

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 ということで、告知(?)です。前の前の職場であるNPO法人起業支援ネットと、今も師範代名刺をわたす度に説明に窮するイシス編集学校との共催講座となっておりまして、その勢いでわたしも少しだけお手伝いに飛んでいくこととなりました。きっと会場の準備とか撮影とか後片付けはしているハズですので、名古屋にいる諸氏は声をかけてやってください。
 名古屋に行くのは、たぶん、1年ぶり、、、でもなかった。そういや年末帰省するときに寄ってました。(;・∀・)

●◯。。。...

 内容は全く知らないわたしですけども、きっとおもしろいことになるのではないかと思っております。柄にもなく、全力告知です(嘘です。全力なんか出したら干からびてしまいます)。まぁ、わたしがそんなにオススメすることなんて、そうありません。
 なぜかっていうと、きっと、きっと、たぶん、おそらく、「情報発信の講座」になんかならないからです。いや、情報発信の講座なんですけど、成功の方程式であるとか、ノウハウであるとか、スキルであるとか、そういったものがわかりやすく提供されることにはならないのではないかと、予想しております。繰り返しますが、わたしは内容を全く知りません。
 柱をどこに立てるか、ということではなくて、基礎工事なんです。地盤を調査したり、ちょっと小突いたり、踏み固めたりするところからなんです。じゃあそれをどうやってするか。そこがミソです。自己分析すりゃあいいってもんじゃねぇんです。ある種のコツでもって、揺らしながら、動かしながら、多様に展開していきます。たぶん。

 なんでそんな妙なことをするかというと、その辺が「NPOのための」なわけでして、お得でっせ、便利でっせ、儲かりまっせ、ばかりではないから、伝えなきゃいけないことがあるわけです。AIDMAとかAISASも大事だけど、それじゃあオルタナティブとしての芸がない。粋じゃないし、ロックでもない。
 社会や、思想や、世界や、コンセプトや、スタイルなどなどを背負いこんで、じわりとゆっくり浸透させていくのが、NPO的な人たちの、これからの「やり口」なのではないかと、個人的には思ってたりするのです。なので、基盤が大切なんです。理念こそが、空気感の源です。

●◯。。。...

 そういうやわらかい情報発信の必要性が、今、高まってきてるのかもしれません。芯があって、余地があるから、周りにコミュニティができていくんだろうなぁ、ってなことを考えつつ、MADARAが起こす風を読みにいきたいと思っています。


m(_ _)m

 

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フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

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ニュースの言葉から。

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 相模原障害者施設殺傷事件から1年が経ったというニュースが、ラジオから聞こえてきた。テレビがないわが家の朝は、NHKラジオではじまるのだ。何気ない夏の朝。ああ、もうそんなに経ったかと思い出していたら、こんな言葉が飛び出してきた。「被告は今も自分のゆがんだ考えに固執しており・・・」。目が点になった。聞いていた二人が二人とも、朝ごはんを食べる手を止めた。おいおい。なんだそりゃ。
 天下のNHKが、「ゆがんだ考え」なんてものがあると思っているのだろうか。しかも報道で使う言葉である。その選択に、疑問はなかったのだろうか。戸惑いなく言い切ることができたのだろうか。違った意味で、びっくりするニュースになってしまった。

 だいたい「考え」ってのは人それぞれ、千差万別のものである。世の中には、とにかく金稼げりゃいい、って考えてる人もいるし、子供と遊ぶのが何よりの幸せだー、って考えてる人もいる。それらは正しいとか間違っているとかで話すもんではない。道徳的に、倫理的に、善か悪かということならば、わかる。わかるけども、やっぱり一方的に悪だと言い切ってしまうのは、ちょっと気持ちがざわつく。
 被告にとっては自分の考えが正しいはずだ。その考えを「ゆがんだ」という言葉で、ギュッと封じ込めてしまうのはいかがなものか。見もせずに、着信拒否し、ブロックしてしまうような激しさを感じてしまった。彼はまさに、排除されようとしているのだ。

 せめて「偏った考え」とか「自分の考えに固執し」とかの表現にならなかったものか。

●◯。。。...

 ところで、この前、かの有名な外山恒一氏がこんなことを書いていた。「パリ警官襲撃、ISに忠誠か」という朝日新聞の記事を読んでのことである。

とくに何の変哲もない文章だとたいていの人は思うだろう。しかし私は「ん?」と引っかかった。内容にではない。「過激思想に染まった」という表現である。「昔の新聞って、こんな表現をしてたかなあ?」と。してたかもしれないが、してなかったような気がする。

現代マスコミ人批判 ・・・波瀾万丈の物語の作者や読者になるより登場人物になったほうがいいに決まっている | 外山恒一のWEB版人民の敵

 

 覚えている方は覚えている、あの大変に過激な政見放送を成し遂げた方である。ネタとして見ていた人も多いし、まぁ、ネタだったんだろうけども、心ある諸氏はその慧眼っぷりにちょこっと惹かれたりしたものだった。正直、この方は結構賢いのだ。
 そんな過激な知識人も、なんか最近のニュースの言葉にひっかかったらしい。確かに「過激思想に染まった」なんて、ドキツイ表現である。洗脳でも受けたんだろうか。洗礼は受けているかもしれないけど。

●◯。。。...

 アメリカ・ファーストな人の影響なのか、何なのか知らないけども、最近わりと激しいのだ。文春が突撃して暴露するのはかまわないけども、NHKニュースなら真相を明らかにして欲しい。その辺のバランス感覚が、なにやらおかしくなっている。
 それと同時に、全くブログが書けなくなっていた期間にぼやっと考えていたことは、この時代に言葉がどれほどの役割を果たせるだろうか、というようなことだった。「話せばわかる」と犬養毅が言った言わなかったかはわからないが、北の方からは「まず一発殴って、地球上から消滅させたるけんのぉ」というような脅威がオラオラと暖機運転し続けている。筋肉一発に、言葉は通じない。
 要するに、緊急事態に対して、まずは一杯お茶を飲めとは言えなかったのだ。ヤン・ウエンリーなら飲んだだろうが、彼も最後は暴力に勝てなかった。

 今回、やっとこさ書こうと思えたのは、そんなこと言ってられないくらいの状況になりつつありそうだからかもしれない。言葉がインフレしてきている。気がする。

 

m(_ _)m

 

 

街場の文体論 (文春文庫)

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