meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『人間にとって科学とはなにか』科学という宗教

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 キリスト教イスラム教、仏教。世界三大宗教に、もうひとつを加えるとしたら、何にするだろうか。人口が多そうだから、ヒンドゥー教か。いや、ここは変化球で考えた方がおもしろい。宗教の意味を広げて捉える。信仰と思えば、民主主義だってひとつの宗教のように見えてくる。となると白人主義なんてのも大きい勢力だろう。合理主義や、ビジネスなんてのも言ってみればひとつの宗教だ。
 と、すれば。4つ目の大宗教には「科学」を加えてみたくなる。論理と言ってもいいかもしれない。1に1を加えれば2になる。売上から費用を引くと利益が残る。酒を飲みたいから、飲む。全くもって当然のことだけれど、その筋道は本当にそうなっているのか。それは正しいのか、どうか。実は自然現象を説明してきたその科学的なロジックに沿うように、わたしたちは信じ込み、そのOSの上で生きているのではないだろうか。

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 『人間にとって科学とは何か』を読んだ。今年の秋に、近畿大学のビブリオシアターで見つけてから、ずっと気になっていた本だった。科学の考え方を絶対視しないことを、科学相対主義というらしい。科学の大家たる湯川秀樹も、梅棹忠夫も、徹底的な科学相対主義者だったようだ。自分自身がやっていることの土台を積極的に揺るがし、ゆらゆらした中で、それでも突き進んでいった科学者2人の対談本である。わたしの知識が追っつかないところが多々あるものの、それはそれとして横に置いておいて、楽しんで読んでいける本だった。

 考えてみれば、「科学」を英語で言うと「Science」である。サイエンスと言えば、理系のイメージが浮かぶ湯川秀樹は物理学者であるし、梅棹忠夫も出身は理学部である。世に言う「科学的」には理系的な思考、これこれという条件であれば「AならばB」が何度も再現できる、というようなロジカルな印象がある。
 実験して、法則を見つけ出す。論理を組み立てて、法則を予測する。簡単に言ってしまえば、そういうことだ。これはとてもわかりやすい。
 一方で、最近おろそかにされていたりする人文科学というのはわかりにくい。試しにGoogle翻訳で英語にしてみたら「Humanities」と出てきた。サイエンスではないのである。本の中でも、人文はなにをどうやっとるぞ、的な話題が少しだけ出てくる。その疑問に対し、梅棹忠夫が「歴史」と「実証」と応えていたのがおもしろかった。
 歴史は文献である。文献に書いてあることが正しい。新たな文献が出てくると、新しい発見がある。文献に限らなくても、過去の出来事に関しての証拠が大切で、それらの証拠をもとに解釈を組み立てていく。この方法は確かに納得がいくもので、正しい。
 もうひとつの実証は、たぶん社会実験と考えるのがわかりやすいと思われる。何らかの理論や予測があって、それをもとに調査したり、仕掛けたりして本当にその理論や予測が正しいのかを明らかにしていく。これもなるほどと納得できる正しさがある。これらはつまり「科学的」なのだと思う。
 だが、そればかりが人間ではない。文学的なアプローチもあれば、芸術学的なアプローチもあるはずである。人間の認識を、思考を、感情を、心理学や脳科学ばかりに担わせてしまっていいのだろうかという疑問は、僕の中にもずっとあった。では、文学的な方法とは何ぞや。人文知とは何ぞや。この方法が、見えないのである。わからないのである。『私の個人主義』を思い出してしまう。

 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱しかられたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並ならべてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解わかるはずがありません。 (『私の個人主義』 夏目漱石

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 科学は常に仮説なので、科学は科学を疑う。けれども、科学が科学である限り、そのOS上からは抜け出せないようにも思う。「合理性への信頼とその限界」。この問題をどうやって乗り越えるのかというところには、文系が出しゃばっていっていいのかもしれない。
 東京大学学際情報学府の佐倉統先生が書いたまえがきがとってもいい読書案内になっている。あとがきから読んでいるようなもので、いきなりどっきり結論どーんな感じだけど、お陰で旨みが増した。ごちそうさまでした。

 


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J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

 

 

こんなもんスグできるやろ案件

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 お客さんから苦情をいただいたらしい。たまーにあることで、それ自体はどうっていう程のことでもない。流れ弾に被弾したようなもんであって、要は運が悪かった。たまたま電話に出たのがワタシだったのだ。それはみんなもわかっている。わかっているがやるせない。愚痴っぽくて申し訳ない。
 いわゆる、こんなもんスグできるだろう案件であった。このぐらいのこと、スグにできるだろう、ちょっと急げば何とかなるだろう、無理言えばできるんでしょう、そうでしょう。そんな押し込み案件である。こういうのは、結構な頻度で現れる。
 簡単そうに見えても、できないものはできないのである。ここをわからない人が一定割合いるようで困る。写真を撮るなんて、シャッター押すだけでしょー。かんたん、かんたん。ちょちょいとやってきてよー。なんて人に巡り会ったことはないけれど、写真撮影ってそんな複雑なことやっとったんかいな!と驚かれたことならある。デジカメだって現像が必要になることだってあるのだ。
 人が思っている以上に他人の事情はこんがらがっている。メール1通送るのにだって、数日かかることだってあるのである。

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 この種の案件への対応は、大きく3つの場合に分けられる。どう足掻いても間に合わない場合、無理すれば何とか間に合う場合、余裕で間に合う場合。グラデーションにはなっているが、ざっくり分ければこの3つだ。
 どう足掻いても間に合わない場合の答えはシンプルである。謝って、理解してもらうしかない。なんで謝らなきゃならないのかは不明であるが、そういった文化の中に生きてきたからには仕方がない。申し訳ございませんが、と言うより他ない。厄介なのは2つ目以降の場合である。
 無理すれば何とか間に合う場合は、無下に要求を断ることもできなくて悩む。残業すればできる、他の仕事を横に置いておけばできる、ダブルチェックを省けば、決裁を事後にしてしまえれば。杓子定規にスッパリスパスパ切ってしまえればいいけども、それはそれで角が立つ。うーんと悩んだ末に、仕事だからと引き受けてしまう。
 そんでもって、大体の場合は何とかなってしまう。これがまた悩ましい。無理すればできる、のときは、大抵できる。裏技使ったり、ショートカットしたり、完成度下げたりすることを「できた」と表現していいかどうかは置いておいて、何とかできてしまう。これがよくない。次からはそれが基準にからである。前にできたことは次にもできる。この論理が首を絞めてくる。無理してくれてありがとう、は、次の瞬間には、やってくれて当たり前になる可能性を秘めている。人間はこわい。
 このリスクが、次の場合の対応をためらわせるのである。建前上で無理ですよー、と言ってるだけで、実は余裕で間に合う場合である。余裕で間に合うのであれば、気前よく、ほいさ、できますぜっ旦那、と言えばよい。言えばよいけども、それ、わたしだから対応できるんですぜ、ってときがあるのだ。このやり方をするとスグできる。うまくできる。そんな方法があるとしても、それを後任者ができるとは限らないのである。やり方を引き継ぐことができればよいけども、古今東西、引き継ぎが完璧にうまくいくことなどないし、むしろ引き継ぎなんてないに等しいことの方が多い。
 その結果、ほいさっ、と気前よく返した返事が、ブーメランのようにまわりまわって、将来自分の席に座る人の胸に突き刺さる。実際、前の人はやってくれました!と主張されたことがあった。前の人のサービス精神が、繁忙期のわたしの残業となる。切ない構造であるなと思った。

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 ゆえに、嘘でもなんでもいいから、作業に余裕を持たせるための演技もするのである。スケジュール見積もるときはちゃんとサバよめよー、と、むかーしむかしに言われたのだ。余裕でも、渋ったり、焦ったりしておけば、相手のサービス当前水準は上がらない。何とか間に合わせたときも、必要以上に汗をかいた雰囲気を装えばいい。
 妙な話なのだ。
 サービスの質を上げるのはよいことなのに、上げないように努力をしているのだから、歪な構造のような気もするのだ。さらに言えば、無茶振りは成長や効率化の機会でもあったりするから、はてさて、どうしたものやらと首を傾げたくなる。
 ただ、質を上げたのであればそれなりの報いがあっていいと考えるならば、無理をきいたときにはチップでも渡して欲しいもんだと思わなくもない。いや、こういう言葉もブーメランするから、控えておいた方がいいのかもしれない。というか、そもそも、無理言ってくるような人がチップとか渡してくれる気がしない。

 

m(_ _)m