meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

本部と現場。

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 いわゆる本社と言われるところにいる。踊る大捜査線で言えば、室井さんの方で、青島刑事の方ではない。事件は会議室で起きてるんじゃない、と、何度言いたくなったことか。言わないけど。言うようなやる気もないけど。
 現場を知っているわけではない。ないけども、本部にいる人間が本当に何もわからずに指令を出しているのだなぁ、ということがよくわかる。全国津々浦々に店舗をかまえているくせに、あるひとつの事象をとってきて全体を決めつけてしまう。思い込みの激しさは「信念」と言い換えられて、本部の中を我がもの顔でのたうち回る。まるで駄々っ子なのである。
 そんな本部に振り回される現場は、正直に言って可哀想であり、哀れである。毒にも薬にもならない程度の号令を本部が発しているうちはましな方なのだということが、ここにきてよくよくわかった。データも読めないし、現場も知らないし、仕組みのつくり方を勉強しようともせず、何が利益を生み出しているのかも理解しようとしない人間が、なぜ実権を握っているかが、本当に謎である。わがままで横柄で面倒くさい人間が昇進してしまったがゆえの悲しさと、組織構造上の問題が重なって顕現しているのではないかとは思うが。

●◯。。。...

 たまに児玉源太郎のエピソードを思い出す。『坂の上の雲』を読んだのは高校のときだから、もう記憶も薄れているけれど、確か前線に近いところに作戦本部を置いていたという話だったと思う。相手の砲弾が届いてしまうような位置に本部を置いて、作戦を立てる。戦争の天才はそういう主義を持っていた。
 着弾の轟音響かぬところで、作戦なんぞ立てられるか、ってなことなのだろう。作戦本部が被弾してしまえば、統制が効かなくなってしまう。そのリスクを冒してまでも、本部は現場の近くに置いた。
 同じような構図は『銀河英雄伝説』でも出てくる。あの規模の宇宙戦艦を現場と言うのかどうかは置いておいて、ヤン・ウェンリーも現場主義だろう。前線において、落ち着いて時機を見る。精神的なタフさが必要なのだと思う。

●◯。。。...

 現場主義がすべてだとは思っていない。でも、手足と頭は離しちゃいけないんだろう。でっかい頭を崩してしまえないか、とも考える。端末のスペックをあげて、頭もそこに移植してしまう。船頭多くして船山にのぼらないためのシンプルなルールさえつくっておけばそれなりに動くと思われるが、いや、しかし、たぶん人材が足りないってことになるんだろうな。
 ところで。
 本部には本部で現場がある。政治である。我田引水するための調整に明け暮れるのが本部である。欲望しか渦巻いてなくて、大変に呆れた世界なのだけれど、これもこれでなかなかに特殊な技能が要求される。誰からどういう目的で要求されるのかもわからないけど要求される。この、誰のために働いているのかわかんない徒労感は、現場には伝わらないだろう。水が現場に還元されるわけでもないので、その活動自体が無駄であるとも思われるのだけれども。

 えてして分業は難しいということだろうか。ぼくには、単に中にいる人々の人間性の問題、つまりは文化的な問題なのではないかとも、思えてしまう。

 

m(_ _)m

 

 

社内政治の教科書

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