年明け一発、不吉なことが起こった。
年が明けたら兄弟で神社と寺をまわるのが、何となく我が家の年中行事になっている。午前0時をまわったら、実家付近の神社に詣で、お寺で除夜の鐘をつき、もひとつお寺に寄って帰宅する。この順序が、ここ数年、ふわっと守られている。
その、最後のお寺で焼香をあげたときである。ぼくが手を合わせて祈ったそのとき。バチッと音がして、お寺が真っ暗になった。停電したらしい。
たぶん、裏で電子レンジでもつけたのだろうとは思ったけども、現場にいる人間、そうそう冷静でもいられない。驚いたぼくは不用意に立ち下がろうとして、出されていたお茶をこぼしてしまった。
実家とはいえ、帰省しているのは母方の実家。集落に馴染みの人がいるわけでもないアウェイ環境。ブレーカーが上げられて復旧したあとも、決まり悪く、畳の上のお茶が拭かれているのを眺めるしかできなかった。
こりゃあ、今年は何かあるかもしれない。そう思わざるを得なかった。
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というわけで、岐阜に帰ってきてから新年祈祷に行ってきた。ちょうど某F氏から送られた扱いに悩むお金があったので、祈祷に使わせてもらった。
不思議なもので、神主さんのふさふっさの御幣はちょうどぼくの頭の上で払われた。払え給え、清め給え。一度に何十人もの祈祷をする。その中で、偶然、ぼくが座ってた位置で払われたことに意味を感じた。少しだけほっとして、しかし、気を抜いてはいかぬと、寒い、澄んだ空気の中で思った。
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翌週にはお伊勢さんにも行った。これも昨年と同じくの恒例行事だけれど、去年よりずっと天気がよくて、気持ちよかった。特急の席がうまいこと取れて、お賽銭がちょうどあって、しっかり歩きまわって、充実のお伊勢参りになった。新しい御札や御守りを買う。なんだか神様に、ちゃんと来るようにと言われていたみたいだな、なんて思った。
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年齢を重ねてだいぶとスピリチュアルになった。というか、そういう理が働いているかもしれないという可能性に対する敬意が大きくなってきた。生かされているのだなぁ、と思うのだ。自分が生きているってこと自体が奇跡的で、1年を無事で過ごせた、それだけで心から感謝できるような、そんな気になってきた。
生きてこれた。それだけで、こりゃあなんかのなんかが働いてるかもだなぁ、などと考えられるようになったのである。
やっぱりぼくは、自分が生きているのだ、なんて主張したくはない。今年も謙虚に、特に何かが起こりそうな年だから、さらに謙虚に、引き受けていこうと思う。
m(_ _)m