meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

もっとズボラにならないと。

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 最近ズボラが流行っているらしい。のか、どうなのかは、実は知らないのだけれど、いつだったかNHKの朝のラジオでズボラでもいいじゃない的なことを言っていた。ちょうどいいなぁ、と思った。仕事の方がちょっと大変な時期を迎えていたり、予想外の事態に直面していたりして、少し気を抜きたかったのだ。
 ズボラってのはいい言葉である。前向きな感じで、ズボラーとか言っていたい。

●◯。。。...

 考えてみれば、どうにもかなりの真人間になってしまっている。むかーしは週に4日も働けば、へろへろぶーぶー言ってたのに、いつの間にやら週に5日、40時間、しっかりフルタイムでサラリーマンをしている。さらに言えば、残業だってしてしまう。
 家に万年床が敷きっぱなしになっていないし、友達の家に転がり込んで居候とかもやってない。きちんとアパートに住んで、クーラーがついていて、毎日風呂掃除して湯船につかる。うーん、名古屋に住んでた時代と比較すると、どえらい変わり様である。
 今日だって、週末の晴れを有効活用するためにも、朝から冬物のダウンをおしゃれ着洗いで手洗いしてた。今年はゴールデンウィークからあんまりスッキリ晴れる日が少なくて、こんな時期まで冬物の洗濯をひっぱっちゃったなぁ、なんて考えていたのである。加えて足ふきマットとかキッチンマットを洗濯機に突っ込んだ。
 洗濯するのは、それなりに気持ちいい。乱雑な部屋は心の乱れであって、掃除は心の整頓である。ああ、なんて真人間で、ふつーなのだろう。それなりの暮らしを、それなりに過ごせるのは、なんかたぶん、ありがたいことなのだろう。

●◯。。。...

 まぁ、ただ、それなりにキチンとしていることに慣れてしまうと、それなりのズボラが許せなくなってしまう。あー、あれ片付けてないなぁ、とか。湯船洗ってないと、なんかお風呂入るのやだなぁ、とか。整理整頓、清潔を完璧に保たなきゃいけないことはないんだけれど、なんかほころびが気になってしまう。120%でやってたことが、慣れて100%になると、そこから水準を落とせなくなってしまう。慣れってのは恐ろしい。
 人間ってのはそうやって120%を100%にして、徐々に徐々に成長していくんだろう。そしたら、その100%を83.333%に戻す現象は、退化になるのかもしれなくて、それはやっぱり気分が悪くなるのかもしれない。
 とはいえ、無理なもんは無理だー、っと手放すのだって大切だ。その吹っ切りをさせてくれるのが、ズボラって言葉だろう。大変なときなんだから、という言い訳をして、ズボラでいいのだと、自分に言い聞かせる。それでよい気がする。

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 ということで、6月はズボラ月間にしてやろう、と企んでいる。

 

m(_ _)m