meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

論理の基礎にあるのは倫理だったのか、という話。

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 ロジックってのをあんまり信用していない。意外と理系頭脳のわたしがそんなことを言うのを変に思う人もいるかもしれませんが、ロジック、論理、ってのがどうもしっくり当てはまっている気がしないことがちょいちょいあるのも事実なんです。だって、論理って、客観的なもののくせに、人によって違ったりしますし。
 例えば、「雨が降ったら傘が売れる」は論理的な話に思えます。そりゃあ、雨が降り出したらみんな傘をさしますし、中には傘を忘れた人もいて、ちょっとこれはしのげんなぁ、となってコンビニとかに寄って傘を買う。当然そうなるような、【気がします】。
 ひとつひとつ、細かいフェーズに分けて考えてみても、それぞれの因果に【違和感はなく】て、間違いは【なさそう】です。実際にも、雨が降りはじめたらコンビニの店頭には傘が出されて、ちょこちょこ買っていくサラリーマンなんかがいる。確かにそうなっている。観察結果とも齟齬はない。
 でも、本当にそうなのか?

●◯。。。...

 もう少し細かく検証します。「雨が降ったら、傘をさす人が増える」。これは当然のことです。実際に増えます。異論はないでしょう。ただし、現代の日本の話ならば、です。傘をさす人が増えるのは当然のことなのですけども、その当然を支えているのは現代の日本を覆っている常識みたいなものです。
 この当然を、みんなが「当然だよね」と言える。それが論理の前提に入っています。ってことは、例えば舞台が縄文時代の日本であったならば、雨が降っても傘はささないでしょう。濡れてただけか、住居や木の下に避難していたか、その辺はわかりません。
 つまり、何らかの前提があって、そいつを共有しているからこそ論理ってのは成り立っている気がするのです。そんでもって、前提ってのは、常識や文化や、ときにはその場の空気だったりするので、意外とあやふやした、社会的なものでもある。そうすると、しっかりとした骨組みを持っていると思っていたロジックが、実は砂上の楼閣だった、なんてことにもなってしまいます。
 だからロジカルってあんまり信用ならんのです。わたしから見たらトンデモな論理を振りかざして襲ってくる人だって、けっこう見かけます。でも、おそらくはその人の論理的な前提をもって考えていけば、それはとってもロジカルな話なのです。たぶん。

●◯。。。...

 そんなことをぼやっと考えていたら、以下の文章にぶつかりました。ああ、なるほど。

 論理的規範は倫理的規範に依拠し、倫理的規範はさらに美的規範に依拠するというふうに、それらの規範は本質的につながっていて、論理学はその基礎を倫理学に求め、そして倫理学は美学に訴えてその助力をえなくてはならない、というのです。
『アブダクション 仮説と発見の論理』 米盛裕二

 ここまで言われるとスッキリします。そうか、倫理だったのか。てか、さらに突っ込めば美学だったのか、と。納得々々です。
 まぁ、正直ほんとにこの文章の意味を理解できている気はしませんが、正と誤だけではなくて、善と悪を論理に持ち込むようなことをしてもいいんじゃないか、という考えには共感します。うーん、善悪というよりは、良心に従う、的な感触のが近いかもしれませんが。
 1と1を足したら、当然に2になるのです。悪意がなければ。ひねくれず、人間の認識に素直に従えば。なるほど、そう考えればしっくりくる気がします。
 倫理ってのが何なのか、どういう考え方をするのかは、知らないんですけどね。

 

m(_ _)m

 

アブダクション―仮説と発見の論理

アブダクション―仮説と発見の論理

  • 作者:米盛 裕二
  • 発売日: 2007/09/20
  • メディア: 単行本