meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

いっしょに暮らすために必要なのは。

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 結婚するなら、その前に一定期間同棲生活をした方がいいだろう。ぼくはそういう意見の持ち主である。一緒に住んだ結果、まぁなんだかそれなりに暮らせているし、そのまま結婚しなくてもいっか、的な雰囲気にならなくもないけれども、そんなリスクを犯してでも、ある程度は一緒に住んでおいた方がいいと思っている。
 一緒に住むというのは、大変なことである。それまでの常識をいくつも覆していかねばならぬ。そんなことなかったよ、という人も多々いるかもしれないけれど、大体の場合、カルチャーショックに類するものにぶち当たるもんだろう。大なり小なり。
 人が違えば習慣が違う。アウフヘーベンするにも時間はかかる。

●◯。。。...

 ラジオだったか何だったかで「結婚する前に衛生感覚は合わせておくべき」というような話を聞いた。なるほど、いい指摘だなぁ、と思った。「衛生感覚」という言葉がおもしろい。何をもってキレイとするか、清潔とするか。その尺度の中核となる部分を「衛生」が貫いている。身体にしろ、部屋にしろ、今風に言えば感染対策だって、どれも「衛生」である。そして、これが人によって実に違う。
 例えば、お風呂を毎日掃除する人と、そうでない人がいる。男のひとり暮らしだったりして(いや、まぁ、こういうのは男女関係ないのかもしれないけれど)、ちょいちょいシャワーで済ませてるし、お風呂は週一回ぐらい掃除してればいいんじゃないの、ってな人もいるだろうし、もっと言えば月一回とか、それ以上掃除しない人もいなくはない。というか、まぁそれなりの数はいるんじゃないかなと思う。
 そんな「毎日掃除派」と「たまに掃除派」がヨーイドンでいきなり暮らしはじめたら摩擦は避けられないのだ。えー、毎日掃除するの?という文句が出る。垢が残ってる湯船なんて汚いじゃない、と不満が返される。こういう違いはある意味で共同生活の醍醐味なのだけれども、ストレスであることには変わりない。ちょっとした修行みたいなことにもなる。
 最終的には、どちらかが折れてどちらかに落ち着くか、折衷案みたいなところに着地する。着地できなければもの別れとなって、なんか洗濯物を別々で洗いましょう、みたいなことになる。どれも解決策ではあって、正しいや間違いがあることではない。こうやってみんな大人になっていく。

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 ただ、いかんせんパワーバランスみたいなものは感じざるを得なくなるだろう。ややもすれば、自分が折れた部分の方が多い、と感じてしまう。妥協に総量もなにもあったもんじゃないんだけれど、譲った部分は大きく見えて、譲られた部分は小さく見えるのは、人間の悲しい性というべきものなのだろうか。洗濯の回数は週1回だったのが週3回に増えたのに、と一方が思っていて、他方は毎日洗濯してたのを2日に1回にしたのに、と思っていたりして、傍からみたらどっちもどっちなのだけれど、当事者にとっては大問題になる。なんかそもそも現状認識さえあってなかったりもする。
 こういう部分に公正な取引は成立しにくい。何かの客観的な基準があるわけでもないので、あとはパワーバランスの世界になっていく。押しが強ければ、週1回大量の洗濯物を洗濯することにもなるだろうし、毎日洗濯することにもなるだろう。こういう局面で大切なのは、あまり相手の要求を丸飲みし過ぎないことかもしれないな、という考えに思い至った。
 要求を丸飲みする。全面降伏、譲歩する。これはこれで、ひとつのあり方なのだけれど、問題は相手側がその譲歩を認識しなくなってしまうことにある。当然のごとく、洗濯は週1回で十分だ、となってしまう。それまでの常識を、そのまま踏襲してしまう。加えて、洗濯以外の分野にまでその常識を適用しようとしはじめる。じゃあ部屋の掃除は月1回もやれば十分だろうと、その衛生感覚(怠け感覚なのかも)を持ち込んでしまう。
 この「自分の常識でよかったんだよね」感と「自分の常識でその他のことも畳み込んじゃえ」感は大変厄介なものになるだろう。それらは自らの柔軟性を損なうものだからだ。いろいろな変化や矛盾を柔らかくいなしながら過ごしていく、というのが共同生活、ひいては社会の暗黙的なルールである。自分が変化できなくなったら、詰み、なのだ。

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 とすると、一方の全面降伏は避けた方が無難となる。つまり、ばっちり感覚が合わない限り、どちらかが満足する状況は生まれず、どちらもがそれなりの不満を抱えることになる。それでいいんじゃないかと思う。今日、一番書きたかったのはこれである。一緒に暮らすとなったときに、どちらもがある一定程度の不満を抱えている状況が、大変に健全なのではないか。そう言いたかったのだ。
 何をもって不満だとか、満足だとするのか、って話もあるので、微妙な話ではある。けども、他人とのズレがないことなんて、そうそうない。ズレを楽しむといったって、共同生活ならばそうも言ってられない場面も出てこよう。だからお互い譲るのであり、お互いが変わっていくのであり、そこにストレスがない方が不自然だろう。
 お互いに我慢できる範囲で不満という状態は健全なのだ、と言い切ってしまおう。少々感覚が合わなかったとしても、こういうスタンスがあれば乗り切っていけるだろう。自分の過去を振り返りながら、そんなことを考えていた。

 

m(_ _)m