meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

ぼくたちは何に操られているのか。

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 久しぶりに内田樹さんの本を読んでいる。『死と身体 コミュニケーションの磁場』である。だいぶと前に読んだ。このブログにも載せてたので、日付を見てみたら、2012年の3月であった。なんと、9年前。そんなに前から、ずっと家にあったのかと思うと、なんだか本ってのは長持ちするもんなんだなぁ、と思う。
 最近は内田樹さんの内田樹節に触れる機会も少なくなった。岐阜に来てから、会計だとかITだとかシステムだとかの分野を優先させていて、あんまりそっちの世界に顔を出さなくなったことが大きいのかもしれない。自分の読書量自体が少なくなっているのも影響しているだろう。
 仕事であれ、家庭であれ、地域であれ、オルタナティブな路線を歩んでいたものが、メインストリームに回収されてしまったところもあり、世界観が変わってしまっているのである。あっちの世界観とこっちの世界観を行ったり来たりできればいいのだろうけれど、その往復運動は少々しんどい。

●◯。。。...

 それでも、ふと読みたくなったのには理由があるのだろう。このタイミングで再度手にとれたのは、ぼく自身の余裕のあらわれでもある。たぶん、いっぱいいっぱいになって知識を詰め込んでいた時期が、一旦片付いて、その合間に入り込めたのだ。日常業務にもそれなりの慣れが出てきていて、よくもわるくもややラフなのだ。このたわみに『死と身体』がひっかかったのだろう。
 内田樹さんは身体のメッセージを聴けという。身体の感度を上げよ、という。読んでいると、脳の司令ばかりに従うべきではないのだなぁ、と思えてくる。合理的な思考が疑わしくなってくる。それが本当に合理的なのか、どうか。わからなくなってきて、最終的には「感じ」とか「気配」みたいな、最も非科学的に見えてしまうものが、生存上一番価値のある情報をもたらしてくれるのではないかな、なんて思えてしまう。

●◯。。。...

 自分の意志に従って行動する、というのはどういうことだろうか。脳に意識があるとして、自分の意識に基づいて動けば、それは脳に操られているということだろうか。脳は自分である。自分が自分を操っていて、自分は自分に操られている。それでは自分とは一体どこにあるものなのだろうか。
 脳と身体の二元論で語られるのであれば、わかりやすい。脳は操る者で、身体は操られる者となる。でも、そんな単純に分けられるものではなくて、脳は身体の一部だし、身体は脳を含む。そうなると、自分は会社の一員で、会社は自分を雇っていて、自分は日本国民で、日本は国民主権であったりしていて、そこに際限のないマトリョーシカが現れる。
 何段階にもなるマトリョーシカの中で、どこまでの皮を剥いたところが「自分」なのかと言われれば、いわゆる人間の1つの身体のところまでのところが一番「自分」っぽい。けども、ぽい、だけだ。
 やっぱりぼくらは周りの環境から影響を受ける。中からも影響も受ける。身体も思考するし、環境も思考するし、脳も思考する。それらが相互に作用しあって、自分という現象が起こっている気がする。
 だから、よくもわるくも、ぼくたちは何かしらにどれぐらいかの度合いで操られているのだと思う。きっと、簡単に感知できるようなものではない何ものかに操られているのだ。

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 内田樹さんの本を読んでいると、そんな感覚になってくる。それを持って、何となくまた日常に戻っていく。そうすると、ほんの少し、見える景色が変わるだろう。ぼくにとっては、それが気持ちいいのかもしれない。

 

m(_ _)m