meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

批判する姿勢と、黙々と行動する姿勢と。

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 コミュニティ・ユース・バンクmomoの総会資料が届いた。パラパラと眺めていたら、懐かしい名前を見つけた。ある人は理事になり、ある人は監事になるという。頭が下がる思いである。心ある人は心ある行動をとるものなのだろう、と勝手に決めつけた。全くもって、勝手なものである。
 momoはあいちコミュニティ財団のもとになった団体である。あいちコミュニティ財団といえば、なんだかんだと燃え上がった団体である。つまりは、今、momoは火中の栗と言ってもいい状況で、要は、大変なのだ。その火の中に手をつっこんで責任を取りに行くなんて、よっぽどの変態である。その事業の存在意義を信じていて、この社会に必要だと思っていないとできない。こういう人が、本当の応援者であるのだろうなぁ、なんてことを思う。

●◯。。。...

 正しいことは軽々と主張できる。世にワルモノを見つければ、そいつはワルだと言い立てるころはたやすい。たやすい言説は生産されやすく、コピーされやすく、リツイートされやすく、そして、徐々に過激になっていく。「正しければ、言ってよい」がひとつの公式である。いつの間にか「正しい範囲であれば、何を言ってもよい」に変化する。
 そういう批判や指摘は往々にして、次をつくろうとしない。言いっぱなしである。言いっぱなしは楽である。楽だから手数は多い。書き手の検討や悩みはそこから見えてこない。そんな言葉がSNSにちょこちょこあらわれていて、モヤモヤしていたところだった。
 その責務を引き受けた覚悟には敬服する。大人ってのは、他人の責任を背負おうとする人のことであると、内田樹さんがどこかで書いていた。今回立った人は、大人なのだと思う。(わたしはまだまだ子供である)

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 沈黙は金なり、とわたしは言わない。名古屋にいたときには、名古屋には論壇が必要なんじゃないか、とか言ってたりしたわたしである。わたしは言葉の力を信じているし、一杯のお茶がもたらす落ち着きを信じている。
 本来、言葉は思考を固めるものではない。批判は「そうでない」と伝えると同時に、同じくらいの反作用で「そうである」可能性を書き手に突きつけるものである。だから、書いたところでやっぱり悩む。考える。悩んでいる点においては、批判者は批判される対象と同じなのだ。批判は、その悩みの一部を引き受けようとする試みと言ってもいいのかもしれない。

 いずれにせよ、相手の立ち位置に自分を置かないと、言葉はきっと他人事になる。もっと厳密に言えば、相手の立ち位置に自分を置こうとする努力をしないと、かもしれない。自分の範囲を拡張する必要が、出てくるハズなのだ。
 テキストが飛び交う世の中なのだから、もう少し丁寧に、言葉を扱いたいなと、いつも思っている。

 

m(_ _)m