meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

データはひとつでも、認識はたくさん出来上がる。導かれる結論は1つにゃなんないってお話

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 例えば、5月の売上が100万円だったとする。これを多いと見るだろうか、少ないと見るだろうか。
 ほんの少し考えればわかるかとは思うが、答えは「多いも少ないもわからない」である。単月の売上だけ見せられても、その事業の規模だとか、今までの推移だとか、競合はどの程度の売上になっているのだろうかとか、そういう類の周囲の情報がないと何とも判断ができない。これが1兆円だったとしても、世間的に見たらすんごい売上だな!と思うぐらいで、その結果がよいものなのか、悪いものなのかは判然としない。それが、最も妥当な結論だと思われる。
 それでは、4月の売上が200万円であったとするならば、どうだろうか。4月と比べれば、5月は売上が半減している。これを見て、どう思うだろうか。
 ある人は4月からがくんと下がった売上を見て、これは悪い結果だと思うだろう。半分しかないとはどういうことだ!と社長が怒り出すんじゃないか、なんて考えにもなるかもしれない。だけども、これだけではまだ何とも言えないなという人も多いハズである。もしかしたら5月に大怪我をしてしまって、1週間しか働けなかったかもしれない。だとすれば、1週間で4月の半分に相当する売上を稼いだのだから、よく頑張ったといえる可能性もある。それでも売上が半分しかなかったのだと責める人もいる。

●◯。。。...

 まことに世の中は複雑である。上に挙げた例は極端なものではあるけども、多かれ少なかれ、これはデータを見るときに起こる事態の相似形なのだ。事業1つをとってみても、1から10まで全ての活動を把握できている人はそうそういない。売上とか営業利益だとか、そういった主要な数字がある程度収集されるだけである。
 つまり、それらは歯抜けの情報なのだ。客観的な指標のみに注力した結果、データ化されたものというだけで、全ての情報を網羅しているわけではない。あっちの店舗では理不尽な大クレームがついてしばらく営業ができなくなっていた。こっちの店舗ではむちゃくちゃ上客がついて一気に客単価が跳ね上がった。じゃあ、前者の店舗が怠けていて、後者の店舗がすごく頑張ったかというと、そうでもない。データはあくまでデータである。それに伴う事情は常に歯抜けになっている。そう思っておいた方がいい。

●◯。。。...

 では、歯抜けになった部分をどうするかというと、取れる態度は大きく2つある。歯抜けは無視するタイプと、歯抜けを想像するタイプである。だいたいは、この2つが入り混じる。人間ってのは大変に現金なもんで、これらを自分の都合のいいように組み合わせる。
 5月はいろんな事情があって100万円の売上だと報告されれば、そんな言い訳など聞きとうない、でバッサリ切る。逆に報告する側からすれば、5月は連休もあったし、あれもこれもあったしで客足が鈍って、と説明がつくように歯抜けを埋めていく。これらは組織が大きくなって、伝言ゲームが長くなっていけばいくほど発生する。外から眺めたら、滑稽以外のなにものでもない。中にいる人間が必死だから、さらに滑稽度は増す。もはやそういうゲームなのだとしか思えなくなったりする。

●◯。。。...

 見えているものも歯抜けであるし、立ち位置によって目線も変わるから、最終的には1つの「正しい認識」に辿り着くことはない。あるのはいくつかの認識の妥協点である。今月の売上の評価をするためには、まぁ、それなら納得できる、という真ん中を目指しての調整が必要となる。データという、とても客観的な指標を用いても、最終的には政治に行き着いてしまうのが、何となく切ない。
 こうなると、関わる人達の賢明さと善良さに全てがかかってくる。賢明でなくてはその意味を引き出して使うことができない。善良でなくてはデータの客観っぽさはそのまま凶器となる。
 世の中は複雑である。ひとつのストーリーにまとまるほど、単純ではない。

 

m(_ _)m

 

 

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

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