meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

正義の凶暴性

f:id:meta-kimura:20200502181421j:plain

 やっぱり正義には注意をしなければならない。自粛警察なんて言葉を聞いていると、そんなことを考えてしまう。人は正しいと信じることを躊躇なく実行する。万引きが悪いことだと知っているから、手が迷う。迷いがあるから、思考が割って入る隙もできるってもんだろう。車道に飛び出た子供を抱き上げる力は、直線で、太い。
 正義は悪より凶暴である。正しいと信じるから、人は人を攻撃する。悪いことだとわかってやっている人たちより、正義の民の方が厄介である。公園で駆け回る子供たちをむやみに叱り飛ばし、他県ナンバーの車に投石する。だって、それは自粛体制化においての「正しい行い」なのだから。

●◯。。。...

 ぼくはそんなことをしない、というのも思い込みだろう。自粛警察にはなっていなくても、同様の構図にハマっていることがある。例えば「残業しないことが正しい」という信念が、人を追い詰めていくことだってある。終業時刻通り帰宅せよ、という命令に、論理上の誤りはない。しかし、それが倫理的によいのかどうかは、別の問題だってこともある。
 なぜか、正義の前では、Howがないがしろにされがちなのかもしれない。悪いことならば、方法を工夫する必要がある。うまいことやらないと、見つかってしまったり、罪を問われてしまったりするからだ。正義はむしろ、目立ちたくなるし、誇りたくなる。うまいことやる必要がない。だから、無造作に、乱雑に扱われてしまう。正しいことなんだから、いいでしょ、という勢いで、他人に押し付けられてしまう。そっと差し出す奥ゆかしさも、持とうとしない。

●◯。。。...

 正義は人のタガを外す。場合によっては、人命よりも正義が優先されてしまう。このことを、ぼくたちはしっかりと認識しておかないといけない。特に、こういうブログを読んじゃうような人達は、覚えておかないといけない。邪悪や、欲望よりも、正義の方がずっと危険なのだ。そう考える人達が一定数いれば、たぶん2割ぐらいいれば、世界はそれなりにまわっていくことができる。大きな雪崩が起きても、ストップをかけることができる。
 ただ、その姿勢を保つためには、定期的に自分自身の正しさを検証する必要が出てくる。どれだけ正しいことをしていても、それが正しくはないことではないか、という余地をずっと抱えておかなければならない。それって、すごく大変なことである。ずっと宙ぶらりんで、中途半端になってしまう。それでも、ある水準の大人な人達は、逃げてはいけないのだろう。
 大きな流れを見て、凶暴な正義に対して、表立って反発せず、距離を置き、冷めた頭でゆるりとジャブを打ち、コミカルに包み込み、草の根に訴える。今回の、自粛警察というネーミングは、そういう意味で言えば、いい線いっていたのかもしれない。やや喧嘩を売ったような名前だけれど、このワードが差し込まれたことで生まれた躊躇いはあっただろう。
 ぼくらはもっと、躊躇いがちでいいのだ。ビジネス的には自信ないのはNGなんだけど。

 

m(_ _)m