meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

場当たり的に生きていくのだ

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 安倍総理が辞任するという。とっても大きなニュースで、むちゃくちゃ驚いた。さぞ無念だっただろう。オリンピックまで続けたかっただろうなとか、考えてしまう。いろいろな見方はあろうが、まずは健康を祈りたい。なんだかんだ言って、長年重責を背負ってきた身なのだ。去り際ぐらい、ちゃんと労いたい。
 それにしても、2020年は何という年なのか。ちょっと深呼吸でもして、落ち着く必要がありそうな勢いだ。なにか大きな転換が起こっていく、その象徴の年になるんだろう。価値観も変わっていく。それが、いい方向に向かっていくのならばいいが。

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 変化には不安がつきまとう。今までと同じことをしていても、通じなくなる。仕事がなくなる。人間は生来安定を好むから、変化に弱い。だから、変化が起こると、何か「変わらないもの」を求めようとする。原理である。ぼくは少し、それを恐れている。不安定になると「金」の相場が急激に上がってしまうように、原理への濁流が生まれてしまわないことを願っている。
 価値は不変ではない。何がよいものなのかは、立場により、時代により、違う。なんとなく、人助けはいついかなるときも善であるという気がしなくもないけども、それだって、そのとき、その瞬間のものである。誰を助けるか、どうやって助けるか、助けた結果どうなったか、いろいろな視点で考え始めたら、キリがない。そういうものである。
 今までと同じように働いていて、今までと同じように給料の高さが人生の成功度合いだと考えていたとして、急にその前提が問われるような事態に陥ると、人は一気に不安になる。例えば、お金を持ってさえいれば豊かに暮らせる、と思っていたとして、そうではないことが明らかになったならば、どういう気持ちになるだろうか。もっと確かなもの、より変わらない価値を、何とかして手に入れたいと思うようにならないだろうか。
 その結果として、行き着く先が原理である。食は大事だよね、国産有機がいいよね、というところで済めばいいけども、オーガニックでなければならない、まで言い始めれば行き過ぎである。家族が生活のベースだよね、家族との時間を大切にしたいよね、が、家族を顧みないなんて非人間的だ、に変貌する。それは、コロナ状況下における自粛警察みたいなもんである。原理は明らかに正しそうな見え方をしている。だからこそ、振り回してもいいものだと思ってしまう。

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 Black Lives Matter にも、そんな雰囲気が漂っていて、ちょっと怖い。報道で触れる程度の情報しかないのだけれど、コロナの中、社会不安の中で、ある一定の集団がそれとなく「そもそも」を考えていったのではないか、なんて考える。彼らの中の原理はそれであったのかもしれず、であれば、その主張は明らかに強いものとなる。現在の考え方において、地産地消はよい原理かもしれなくて、選民思想は悪い原理かもしれないのだ。
 だけど、シンプルだから強い。上流まで遡った考え方だから、否定しづらい。ロジックじゃ通らない。

 こういう不安期に大切なのは、場当たり的な良心だと、ぼくは思っている。状況が安定しないので、人の行動も、判断も、一貫しづらい。ある信念に基づいて生きているような強い人には関係のないことなのかもしれないけれど、流されやすい弱い人間は、開き直って場当たり的にやっていけばいいのではないかと、思っている。無理に自分の価値観を一貫させようと、辻褄を合わせようとすると、余計に自分のスタンスが崩れて、原理の濁流に飲み込まれてしまう。
 慈善活動に寄付していた人が投機的な投資に走ってもいいし、忠誠を尽くして勤め上げてきた社員が競合に転職するなんてことをしてもいい。昨日隣人に投石して、今日手を差し伸べる。そこまで極端だと、アイデンティティが崩壊しちゃいそうだけれど、それでも、そのときそのときの判断を、そのときそのときに合わせてしていく方が、軽やかになれる。一方向の流れに距離を置くことができる。
 だから、演繹よりも帰納っぽくやり過ごすことをオススメしたい。その場で湧いてくる良心に耳を傾けてもらいたい。そうすることができれば、アベ政治を批判しまくっていた人たちでも、辞任を労うことだってできるハズなのだ。

 

m(_ _)m