年末年始の課題図書に選んでいた『白い巨塔』を、先週末辺りに読み終えた。長かった。続編もあわせて全5巻。読みやすかったし、引き込まれることもあったとはいえ、さすがのボリュームだった。その分、歯ごたえもしっかりあった。
言わずとしれた名作である。最近でもドラマになっていたりする。ただ、書かれた時代は意外と古くて、連載が1963年~1965年。続編でも1967年~1968年らしい。もう半世紀前の作品と考えると、それはそれで味わい深い。
国の医療保険制度のあり方や、医学という世界の政治性、医事裁判の難しさなどなど。物語の中で扱われたテーマは、現在でも通用する。してしまう。それはそれで、少し哀しくもあるなぁ、と思う。未だに財前みたいな教授はいないでしょ、なんて、言えないところがあるのだ。
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読んでいて、財前に勝って欲しい、という気持ちが湧いてきたことには驚いた。ご存知のように、財前は自信過剰で、横柄で、愛人も囲っているし、選挙で勝つために金もばら撒いたりするキャラクターである。手術の名人で多くの人を救ってはいるものの、人格には難がある。金や人事を駆使して有利な状況を作り出すという政治派として描かれる。
その対立軸にあるのは真摯に研究に取り組む学究派である。中心人物は里見助教授。患者遺族が財前を相手取って起こした医事裁判において、財前側が不利となる真実の証言をしたことで、里見助教授は大学病院から左遷される。しかし、その後も患者の生命と向き合う、真実を追求する、そういった医学者としての正義を貫き通そうとして、献身的に活動する。正義マンである。
その正義がぼくの鼻についたのかもしれない。里見の主義は正しい。正しいがゆえに、現実に即していないように思えてならないのである。
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社会を変えるために、正義を掲げて真正面からぶつかっていくような時代だったのかもしれない。1960年代、日本はまだ高度経済成長期だ。その時代の社会運動と言えば、ゲバ棒を持ってゲバゲバしているイメージがある。正しさは貫くものだったと言われれば、そうも思える。
しかし、本当に変革を目指すならば、もっとずる賢くやっていく道もあっただろう。そこが里見の不器用なところで、不器用さがカッコよさだった時代を思ってしまう。
そう考えると、財前は器用な方だろう。ただ、構造に飲み込まれただけだ。いろんなしがらみにガンジガラメにされて、奥にある善意、敬意がさらに埋もれてしまった。「財前教授」という言葉は、なんだか医師の大名行列の先頭にいる権力の権化みたいなイメージで使われているけども、きっと、もともとそういう人格であったわけではない。医学部の文化や制度がそのキャラクターを求めてしまったのだろう。
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問題は政治である。この厄介なしろものに、ぼく自身も振りまわされてきた。政治という、この掴み難い雰囲気を醸成する力学構造みたいなものを、見逃してはならない。こいつは、ロジックだけでは切り崩せないものなのだろうなぁ、と思う。
ぼくは政治を毛嫌いしてしまっている。
m(_ _)m