meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

ボランティアの世界観

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 東京オリンピックが終わった。なんだかんだで、それなりには見たのかもしれない。話題の卓球は一度も見なかったが、陸上は見た。TVerNHKプラスを行き来して、晩ごはんを食べながら、まずまず楽しませてもらった。女子1500mはアツかった。閉会式まで、なんとなく見てしまった。
 東京オリンピックを開催してよかったか、悪かったか、なんてアンケート調査も見かけるようになった。オリンピック終盤になって、オリンピックに対してのポジティブな発言が増えてきただとか、なんだとか。最終的には開催してよかったと答える人が多くなった、とか。まぁ、なんだかよくわからん調査だなぁ、と思う。
 だいたいの人が、よかった面もあるし、悪かった面もある、って感じだろう。いろいろひっくるめて総合的に見て、結局白黒どっち、なんて、ちょっと強引だ。どっちつかずの気持ちを、無理に収束させる質問は、よくない。本当はフクザツだった自分の感情が、シンプルに塗り直されてしまう。そんなことを続けていると、現状を見失う。
 特に今回は、みんなフクザツだったと思う。あまり単純に捉えてはいけないだろう。

●◯。。。...

 終わってみてから、ボランティアの活躍がどうこう、という話が届くようになった。笑顔で気持ちよく歓迎していた、だとか、医師や看護師がボランティアで参加していた、だとか。それらの活躍に対して、タダ働きさせるなんて、とか、専門スキルを無料で提供させた、とか、そんなような声も聞こえてきた。ボランティアってのは、難しいもんだなと、改めて思う。
 自分の乏しい経験から言ってしまえば、外野がどうこう言うもんでもないのがボランティアである。タダ働き、といえばその通りだ。楽しいばかりでもなくて、苦しいことや辛いこともあるのがボランティアだし、なんだかんだで指示に従って動かなきゃならなかったりもする。使う側からすれば、無料の労働力とも言える。それはそれでひとつの現実ってやつだろう。
 じゃあなんでボランティアをやるか、となったとき、その問いにはあんまりうまく答えられそうにない。でも、そういう、なんかわかんない曖昧なものをなんとなく感じながらやるのがボランティアっぽい気もする。明確な目的を持って、自発的に関わるのがボランティアなんだー、って言ってる人もいるだろうけど、全部が全部、そんなにがっちりした人たちではない。なんとなくで、愚痴も言いながら、それでもやってる。だから、ふと冷静になっときにやめちゃうのがボランティアなんじゃないかなぁ、なんて思っている。
 たぶん、こういう感じは中にはいった人にしかわからない。がんばった、も、いい経験できた、も、いいように使われた、も、しんどいばっかだった、も、きっと中に入って感じてみないとわからない。その経験は、外野からとやかく言うもんでもないんだろう。
 やって後悔するのも、意外と楽しんじゃうのも、ひとつひとつが経験であって、その価値をはかれるもんではない。ボランティアの人達が、いい顔で打ち上げできてたらいいなぁ、とは思うが、その活動を美談として周知する必要は感じないし、そういう演出はちょっと興ざめしちゃうな、とも思う。

●◯。。。...

 あっちとこっちでは、世界が違う。こっちの世界のロジックで、あっちの世界は語れない。そんな気がする。ボランティアってそういう不思議さがあるもんなのだ。



m(_ _)m