meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

ワクチンを打たない自由ってのは、あるのだろうか。

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 なんだか、よくわからない状況になってきた。ワクチンの接種は進んでいる。それでも、コロナウイルスの感染は拡大しているようで、1年前から考えれば、とんでもない数の新規感染者が報告されるようになっている。オリンピックがどうだとか、こうだとか、まぁ、そんなこともあるんだろうけど、ワクチン打った安心感でみんなあちこち遊びにいったんじゃないかとかも、ちょっと思ってしまったりもする。
 とにもかくにも、今や正常化バイアスをフル回転で作動させ続けなければならない世の中だ。大都会では息も吸えなくなっちゃう気分の人が、いるかもしれないしいないかもしれない。

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 こんな状況になってから、ちらほら「ワクチンを打たない自由」みたいなのを見かけるようになった。そんなもんあったのか。医療機関勤めとしては、ある意味で、なんか羨ましくもある。春ごろにも打たない選択肢はあったけど、アレルギーとかの身体上の理由なく打たない選択なんてあったんかなぁ、と、思ってしまう。
 まぁ、そんな「拗ね」はともかく。
 この「ワクチンを打たない自由」ってのは、ちょっと誤解を生みかねないな、と思っている。正しく言うなら「安全性にまだハッキリしないところがなくはないからワクチンを打たないって選択ができる自由」なのではなかろうか。

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 なんとなく、「ワクチンを打たない自由」って言ってしまうと、自由意志で打たない選択ができてしまうようなニュアンスに聞こえてしまう。実際、打つ、打たないが自由意志なのかというと、それはとってもグレーではなかろうか。
 公衆衛生とか、公共の福祉を考えるに、感染症を予防するワクチンはとっても大切なものだろう。ある一定規模の集団がワクチンを打たずに残っていると、そこからまた感染が広がってしまう可能性がある。だから、収束させたり、終息させたり、根絶させるためには、みんながワクチンを打つ必要がある。感染症とかってのは、そういう考え方だから、ぼくらは小さい頃からいろんな予防接種を受けてきたのではないのだろうか。
 であれば、基本的には接種はしなければならないもの、と考えてもいいのではないか。原則はしなくてはいけないもの。但し、今回のコロナウイルスに対するワクチンには安全性が明確になっていないところがあるようだから、打たない選択もできる。これが筋道のような気がするのだ。とはいっても、完全に安全な薬があるわけないので、ある一定基準を満たせば安全とみなすのが現実的である。なんか、打たない選択が残っているのは温情措置のように思えなくもない。

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 そもそも、原則が自由意志だと、打つのが痛いし、特に今回のワクチンの場合は副作用がしんどいので、みんな打たない選択をする。正常化バイアスフルスロットルで推論すると、自分はコロナにかからないし、周りの人がみんなワクチン打ってくれたら大丈夫なので、打ったもん負けという結論に至る。それだと、公衆衛生成り立たなくならないだろうか、という疑問は、湧いてこないのだろう。みんな自分が可愛いのだ。
 そして感染は拡大していき、みんな政府が悪いとぼやいたりするのである。その点では、哀れだなぁ、と思う。

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 というわけで、安全じゃーい!と言い切る気概も知識も経験もないので、へっぴり腰な議論ではあるが、それでも「ワクチンを打たない自由」は個人の自由意志って話じゃなかろー、と思ったので、怖がりながら書いてみた。でも、きっと、そうなのだ。自由意志に任せていてはどうにもならないことがある。だけど、ご時世柄、そんなものをダイレクトに突きつけてしまえるものでもないから、とってもグレーに、曖昧にして、雰囲気で押していかなきゃならない。空気の力なんて、今や毛嫌いされているんだけど、そこに頼っていかなきゃならんことだってあるのだろうと、思うのである。
 ところで、ぼくはそろそろ接種から半年が見えてきてしまった。3回目の声がかかるのだろうかと考えると、今から気が重い。まぁ、しゃーなしである。



m(_ _)m