meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

無理が通れば道理が引っ込むならば、無理を通せば無敵なのか。

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 とても悩ましい。これに関しては、ずーっと前から考え込んでいて、答えが出ない。答えが出ないだけならまだいい。本当に、生存戦略としての筋肉の重要性に、わたし自身が敗北しつつあるから怖いのだ。
 世の中、オラオラした方が勝つ。これがどうにも尤もらしい。苦情を言えば、お土産がついてくる。厄介な人間だと思われれば思われるほど、主張は通りやすい。「面倒くさい相手だなぁ。何か言われる前にちゃっちゃと済ませてしまえ」。これが困ったちゃん対応をするときの実感である。自然と、いい人、こちらの事情を慮ってくれる人、親しい相手からの依頼は後回しになる。結果、早くしろ!と無茶な要求をしてくる輩が思い通りの結果を手にしてしまう。
 わたしはこの構造が、大変に気に入らない。

●◯。。。...

 いい人間が上に行く。そんな世の中であって欲しいと願う。だけども、どんな人が「よい」のかはわからない。頭がよいからといって、仕事ができるとは限らない。性格がよくても、同じである。総合的に「よい」人を判断する術はない。たぶん、ない。
 だから、ビジネスという方法が選ばれているのではないかと、思っている。渋沢栄一が日本の経済を構想したときには、なるべく「よい」人が上に行くようにと考えていたハズである。よく知らないけど、そうだと思いたい。人といい関係を築ける人、信頼される人、好意をもたれる人、運がいい人などなどが成果をあげる。基準がないからこそ、市場の中でのやり取りで、徐々にそういった人が選ばれていく。実るほど、頭を垂れる稲穂かな。VIPな人ほど、腰が低くて感じがいいというのは、よく聞く話であり、本当にそうだなと感じることもよくある。

 だけども、最近はちょっと事情が違ってきているように感じてしまう。言葉が激しく、暴力的になってきているのと同様に、どうも筋肉の力が増してきている。大きい話で言えば、軍事がその存在感を高めている。北の方からは、どうにも話が通じないような脅威が迫ってきている。オラオラ押せば、自分の利益が増えると信じているようで、実際に望み通りになっている雰囲気もあって、気味が悪い。着々と筋肉が増加しているらしい。
 対する西側も筋肉で対抗するような話が聞こえてくる。これに対して、わたしは真っ向から異を唱えることができないでいる。致し方なし。そんな声が、どこからともなくあがっているように、思う。果たして、仕方なし、しょうがない、やむを得ない、という態度がよいものなのかどうか、わからない。わかっていることと言えば、やはり最後にはパワーに頼るしかないのか、というわたしの諦観である。
 死人に口なし。ペンは剣に負ける。負けたくはない。

●◯。。。...

 視点を戻して、周囲を見渡してみても、なんだか憎まれっ子が世に憚っているようなのだ。無茶苦茶を言うモンスターはペアレンツに限らない。それぞれが「すみませんが」と前置きしてコミュニケーションすればいいものを、なぜか要求を突きつける。さもサービスを受けるのが当然といった態度であったりする。そういう人は、目立つ。目立って、成果を誇り、認められ、増長する。
 イノベーターは、無理を通す人や無茶を言う人ではないと思いたい。思いたいが、この2者は近い存在なのかもしれなくて、困る。既成概念を壊し、囚われず、新しい分野を開拓するにはパワーも必要だろう。攻撃力だって、あった方がいい。しかし、やっぱりモンスターであって欲しくはない。憎まれっ子ではなくて、好かれっ子であって欲しい。

 そう、切に願う。
 一体、イノベーターとモンスターの違いは何なのだろうか。

●◯。。。...

 戦略として、モンスターになる方が自己の利益になると判断できる状況があり、合理的に、モンスター化する人が多くなればなるほど、わたしのような引っ込み思案は生きにくくなるのだろう。ただ、それはなんかダークサイドに落ちていくようなことだと思う。フォースには、ノブレス・オブリージュとか、騎士道精神とか、武士道魂とかが伴うべきなのだ。結局のところ、それは人間の良心や良識ではなかろうか。

 ところで。お盆休みにそんな話を兄にしてみたら「心理学は『他人は変えられない、変わるのは自分』が前提やからなぁ」と言われてしまった。なるほど、たしかに。ん? しかし、カウンセラーの仕事とはいったい・・・うごごご。

 

m(_ _)m

 

 

カウンセラーは何を見ているか (シリーズケアをひらく)

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『貨幣の思想史』お金とは何か。お金にはなぜ価値があるのだろうか。

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 だいたいいっつも忘れているのだけれど、わたしがNPOだとか、ソーシャルだとか、そういう世界に足を突っ込んだのは「お金」がきっかけだった。その当時はリーマンショックがあって、どうこう、なんやかんや、というのはよく職務経歴書に書く詭弁である。そんなことより、どう考えても会社は首の締め合いでもしてるのかとしか思えなかった。次々と上司や同期が辞めていく中で、倒れていく中で、経済に疑問を持たない方がおかしかった。
 経世済民。「済民」は人民の難儀を救済することで、「済」は救う、援助する意とあるが、果たして誰が救われているのだろうか。仕事帰りの夜道に、一人月を見上げて思ったものである。なんてロマンチストなんだろう。

 そんなわけでわたしは敢えなくドロップアウトした。そのついでに、お金について調べようと思いはじめて、金融だのなんだのをつまみ食いしてみた。そうして、ご縁がつながり、ソーシャルファイナンスとか、社会的金融というものに行き着くことになる。銀行に預けているお金が軍需産業に投資されているなんてことに、やっと気づく。
 その事実の良し悪しよりも、それを想像し得なかったことがよろしくないのであった。なぜ利子がつくのか。なぜ、どこで、どのようにして、お金は増えるのか。当たり前とも思える疑問を完全に見逃していた。そのことがショックだった。

●◯。。。...

 『貨幣の思想史』はそういった疑問を見逃さなかった人たちを追いかける。お金って何なのか。西洋社会でも、思想が先に立ったわけではなかった。まず経済があった。既に貨幣での交換が当たり前に行われていた。行われていたが、なぜ、貨幣が、単なる紙切れやコインが、交換に値するものとしてはびこっていたのかはわからなかった。
 そもそも富というものも定義ができていなかった。だからある人は国家の富を、国家が持つ貨幣の量として考える。そうして言うのだ。貨幣を用いない、物々交換を行っている者はよくない。それでは国は豊かにならない、と。
 また他の人は言う。社会を豊かにするのは、唯一農業のみだ、と。製造業は材料を加工するけども、その材料は他の誰かから仕入れたものだ。それらは全て人間界の中でまわっている。農業だけが、自然界と付き合い、その力でもって投入する労働よりも大きな成果を得る。だから、農業のみが社会を成長させるのだ、と。
 まさに悪戦苦闘である。苦闘の根本には、すべての物事に「秩序」が存在するハズだ、という西洋的な価値観がある。理想的な秩序にもとづいて、合理的に、世界は動くハズ。それなのに、経済ではひとつの偶然が巨万の富を生み、嵐で船が難破すれば会社が傾く。てんでバラバラだったのだ。
 さらには価値の問題が立ちはだかる。商品を使用して得られる「使用価値」がある。一方で、貨幣に使用価値はなく、何と交換できるかという「交換価値」がある。この2つが結びつかない。そもそも使用価値が多様過ぎるのだ。砂漠の遭難者が感じる水の使用価値は高いが、都市部の恵まれた環境に住む人にとってはそんなに高くはないだろう。人によって、状況によって、使用価値は変化する。まぁ、捉えどころのないものなのだ。
 それを貨幣で測らなければならない。貨幣が持つ交換価値は、商品の使用価値と、ほぼ同等でなければならない。感覚的には当然、そうなる。ところがどっこい、どうもそうではないらしい。遂に至ったのは、交換価値と使用価値の世界は別物である、という結論だった。経済学は使用価値の世界を切り捨てたのだ。

●◯。。。...

 ほんとかよ、という感想と共に、ほんとかもな、という感触が残る。商品があってお金がある、という順序じゃないとしたら。お金があって商品がある、だとしたら。

 商品の価値をつくりだしているものは、使用価値においても、交換価値あるいは価値の面においても、その価値実体をつくりだしているものは、それとともにある関係的世界である。使用価値は、それを使用する関係が、使用価値という価値実体をつくりだす。交換価値、あるいは価値でも同じである。ここでは価値は価格に等しく、価値量は労働時間量に等しいとみなすことによって成立する商品経済の構造が、価値実体を成立させる。すなわち商品経済の構造と価値(=交換価値)との関係が、実体としての価値を成立させているのである。
 その結果、その商品の価値実体が価格としての貨幣量を定めるのではなく、貨幣化された価値が逆にその商品の価値実体を生じさせるという傾倒が構造化される。貨幣が単なる交換財であったときは、商品の結果であったはずの貨幣が、近代的商品経済のもとでは出発点になっている。ここにおいて貨幣は「神」の地位を獲得する。
 この関係を理解しないかぎり、私には、資本制商品経済も、貨幣の時代もとらえることはできないように思える。そして、そのことを承認するためには、実体にもとづいて関係がつくられるのではなく、関係が実体をつくりだす過程のなかに私たちの世界はあるのだという認識方法の転換が必要なのである。

 わたしは、だからお金がおかしいのだ、と言いたくはない。物々交換だー、といって、使用価値の世界に戻るのも悪くはないと思う。だけども、それではあまりにも原理的で、主義が強い。何より、わたしだってお金が好きなのだ。既にお金に操られているのであって、進んでお金に操られているフシもあるのだ。
 だが、こういった矛盾や傾倒には気づいておかなければならない。内山節氏だから批判的に書いてるってのも含めて、なにやらそんな気配があるぞと、少しだけ注意をしておく必要はあると思うのだ。使用価値と交換価値が全くの別物だと知っていれば、使用価値ばかりを追い求めても富豪にはなれんぞということがスグわかる。

●◯。。。...

 エピローグに内山節氏が山村の家を買った話が出ていておもしろい。売り手も買い手も価格がつけられなくて、お金のやり取りが「どうでもいい」ものになったのだとか。そんな予感をわたしも少しだけ持っていた。
 消費者と生産者の垣根がどんどん低くなると、お金はわりとどうでもいいものになっていく。ワークショップで古民家を改装したとしたら、それは生産だろうか。消費だろうか。Facebookに動画を投稿したら、それは生産だろうか、消費だろうか。では、生産したからお金がもらえるだろうか。消費したからお金を払うだろうか。
 なんだか徐々に曖昧になっているように思う。特に教育系の業種ではそうだろう。体験を売り物にしているサービス業にも近い雰囲気がある。そこでは消費者は参加者であり、参加者は場に関わってなにかを作りあげている。作ることは生産とも捉えることができて、生産が参加者の満足となる。さて、お金はどう流れたらよいのだろうか。
 なんてことを、若気の至りでちょいと考えていたことがあった。何にせよ、こういった「どうでもよさ」も貨幣愛を乗り越えた先にあるんじゃないか、とも思う。もっとお金との関係を試行錯誤してみてもいいのだろう。

 

m(_ _)m

 

 

貨幣の思想史―お金について考えた人びと (新潮選書)

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「社会を変える」お金の使い方――投票としての寄付 投資としての寄付

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