meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『福沢諭吉家族論集』盛大なる明治の男性バッシング

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 今年のBOOK在月という一箱古本市で、なぜか手元に転がりこんできた。キリのいい値段にするために選んだ「もう一冊」である。ざらーっと並んだ古本の中で、まぁ、どれか選ぶといったら、これだろうかというぐらいのテンションで選んだ。読むかどうかは、わからないと思ったし、読めるかどうかもわからんなと思った本だった。
 まぁ、しかし。言うても福沢諭吉先生である。明治の文語文と言えど、読めなくはない。むしろ、わたしにとっては村上春樹よりもずっとか読みやすい。福沢諭吉の文章はリズミカルで美しく、簡単で気持ちがいいのだ。進歩的で啓蒙的で、ゆえに庶民にも読みやすいように書かれている。繰り返される比喩が少々くどいくらいである。
 じりじりと、それでいてぐいぐいと読み進めていき、いつの間にか最後のページに辿り着いていた。ぷっはーっ、と読み切ったときの達成感は、なぜだか妙に高い。読んでるときは息を止めていたような感覚にもなるのは、なんだろう。

●◯。。。...

 家族論集とは書いてあるものの、内容は女性論である。女性の地位、身分、扱われ方がやたらめったらに低く、男性が大変に偉ぶっている。こんな日本では西洋に太刀打ちできぬ。生まれつき男女は平等ならん。女性の地位を向上せしめ、高すぎる男性の権力を低め、もって平らな関係にせん。平らにならして、女性も家を出てさまざまな人と交際すべし。いや、交際と言っても、肉体的なあれやこれやじゃなくって、精神的な交際のことでして、そうやって女性も活動することによってですな、日本という国の力を高めていかねばならんのです、うんぬん。
 というようなわけで、強烈に男性バッシングをしていて、なんだかそれがまた微笑ましいようにも思えてしまう。こういう歴史ものというか、当時の価値観の中で書かれたことを楽しむ系の文章は、今の常識との変化とか、かけ離れ方とか、意外とおんなじだったりする共通点とかがメインディッシュだったりするのだ。福沢諭吉が日本婦人論なんて書いたりしたから、奥さんに前々からねだられていた着物買わなきゃならないハメになったじゃないか、なんて話もあるもので、こういう洒落のセンスは今も昔も変わらんもんなのかもなぁ、なんて眺めているのである。「尻に敷かれた旦那」も絶対にいただろう。

●◯。。。...

 ともあれ、世は明治であった。文明は進むものと考えられていた。福沢諭吉はさらに文明が進んで進んで、極まれば、社会に法律も制度もいらなくなるだろうと考えていた。数千年とか数万年後には、みんながみんな賢くなっていて、高い徳を持っていて、誰もが他者を思いやる。そんな世の中になっているハズである。その理想に向かって世界は進む。その途上が今なのであって、そろそろ男尊女卑は捨てなさい、というようなことだった。
 それから100年以上が過ぎて、わたしは文明が一方通行に進歩するとは思っていない。では、今は何の途上なのだろうか。わたしは、どこに向かおうとしていいのだろうか。

 

m(_ _)m

 

 

福沢諭吉家族論集 (岩波文庫)

福沢諭吉家族論集 (岩波文庫)

 

 

ポスト・トゥルースとかオルタナティブ・ファクトとは健全に付き合いたい。

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 事実が揺らいでいるらしい。フェイクニュースなんて言葉も聞こえてきたが、おっと目を引いたのは「ポスト・トゥルース」と「オルタナティブ・ファクト」だった。なんじゃこりゃ。直訳すると「次の真実」と「代替事実」だろうか。真実がひとつでない。事実が多様である。ふむふむ、やっとそこに気付いたかいワトソンくん、とか言いたくなった。なんか意味が違う気がするけど、言いたくなった。
 ちょいとググってみた。どうやら為政者によって都合よく使われている言葉みたいである。至極残念である。どちらも「ポスト真実の政治」と「もう一つの事実」という項目でウィキペディア先生に掲載されているので、興味がある方はそちらを読んでみるといいと思う。あんまり日本では聞かない言葉だけど、ぼくがニュースとかに触れてないから聞いてないだけで結構みんな知ってたりしてて、実はニッポンのジョーシキなのかもしれないけれどけれど、なんかイギリスとかアメリカとかで注目のキーワードらしい。
 概要に「ポスト真実の政治における論証は、政策の詳細は欠けており、断言を繰り返し、事実に基づく意見・反論は無視される。伝統的な議論とは異なっており、事実が歪められ、二次的な重要性を与えられている」なんて書かれるぐらいには混乱しているようで、つまりはプロパガンダみたいなもんだろう、そうなんだろうと一旦飲み込んだ。
 デマとかフェイクニュースとか、そんなに問題になってるのねぇ、対岸の火事だねぇ、ってな感覚である。ちょいとググればニュースが出てくるし、ニュースが出てくればそれに対するコメントにも目がいくもんだし、ニュースの提供元はひとつでもない。昔に比べれば判断の材料はぐんと増えている。東日本大震災のときに流行ったチェーンメールだって、ぼくのところにはひとつも来なかった。ひと呼吸おけばそんなのに騙されるわけがないのだ。リテラシーってのはそこまで落ちたのだろうか。
 ただし、チェーンメールが来なかったことに関しては、ぼくの友達の少なさが影響しているだろうと思われる。それは別の話である。

●◯。。。...

 違うのだ。事実というものを動かざる証拠として1つにまとめてしまうことには抗いたいし、抗ってもいいと思うのだけれども、それは自分に都合のいい事実を選び取るようなことではないのである。『1984年』ぶって、二重思考で事実を読み替えてしまうようなことでもない。Alternativeと言いつつ、Selectiveになっているようで、それは残念だなと思う。
 1つの事実を盲目的に信じることなかれ、というのが現代のスタイルであろう。事実であったとしても、それはAさんには甲と見えて、Bさんには乙と見えているかもしれない。それぞれにとって事実(甲)と事実(乙)であったとするなら、それはどちらも事実である。ただし、Aさんは事実(甲)に、Bさんは事実(乙)に一定の疑問を持たなくてはならない。それらの事実を、客観的な、絶対的なものにしてしまってはいけないのだ。その上で、両者がコミュニケーションするときには、甲乙、互いの事実を交換するようにして、お互いの土俵に首をつっこむようにして話し合えるのが理想なのだ。
 だから、事実の権力が揺らいだことについては、ぼくはちょっと歓迎したい。動かぬ証拠というものの必要性はわかるし、重要性も痛烈に感じるけども、あまり簡単に事実だからと信じてしまうのもよろしくないように思われる。コミュニケーションしようとする双方の力を、外部にある事実が一手に引き受けてしまっている。それぞれの背負うべき苦労を奪っているような気さえする。
 『めぞん一刻』の五代くんを思い出して欲しい。音無響子さんの亡き夫、惣一郎さんの墓の前でこう言うではないか。「初めて会った日から響子さんの中にあなたがいて、そんな響子さんをおれは好きになった。だから、あなたもひっくるめて響子さんをもらいます」と。なんか全然違う気もするけど、事実も感情も、客観も主観も、身体も性格も、ぜんぶまとめてひっくるめるというのがすんばらしいのである。なんか全然違う話のような気もするけど、実は最初っから土台ごと引き受けてるってことに気づかせてくれるのがすんごいのである。

●◯。。。...

 五代くんに比べれば、オルタナティブ・ファクトは大変にセルフィッシュ・ファクトな感じである。そんなことでは、まだまだ音無さんを振り向かせられない。自陣に籠もっても打開はされぬ。あっち側を想定すること。ここを離れてあっちに向かおうとすること。そういう姿勢を大切にしておきたいなと、自戒を込めて思う。

 

 

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

 

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